古典に学ぶ (64) 『枕草子』のおもしろさを読む(18)
─ 「長月ばかり」(125段)②・「野分のまたの日こそ」(189段)の「をかし」の世界① ─     
                            実川恵子 

 「長月ばかり」の後半は、次のように描かれる。
 台風が過ぎ、少し日が高くなった頃、昨夜の雨にたたかれて、重く地面にたれ伏していた萩の枝が、ふらりと生きているように動く。まあ、なんておもしろいの、と私は飽かず眺め、今、こうして書いているのだが、他の人にとっては、それがどうしたの、どこがおもしろいの、というかも知れないなと思う。そうよね。現にこれを見た人でなければおもしろいわけなんてないわね、と思う、また、そのことが尽きぬ興味を呼び起こすのだから、とある。
 萩の枝の動きを発見した時の心の弾み、そしてその心の弾みは所詮、発見者だけのものかもしれないと思うと、そのことがまた次々といろいろな感懐を生み出してくるというのである。まさに清少納言の生き生きとした顔つきが想像できそうだ。
 触発されて、もう一つの章段「野分のまたの日こそ」(189段)を思い出した。この章段は「源氏物語」の野分の巻と対比される有名な一段である。少々長いので、段落ごとにまとめて載せたい。
 野分(のわき)のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。立蔀(たてじとみ)、透垣(すいがい)などの乱れたるに、前栽(せんざい)どもいと心苦しげなり。大きなる木どもも倒れ、枝など吹き折られたるが、萩・女郎花(おみなへし)などの上によろこばひ伏せる、いと思はずなり。格子(かうし)の壺などに、木の葉をことさらにしたらむやうに、こまごまと吹き入れたるこそ、荒かりつる風のしわざとはおぼえね。
 (台風の翌朝は、とても情趣深く、おもしろい。大風で立蔀や透垣が倒れたり、吹き飛ばされたりして、庭の植え込みが痛々しい惨状を呈している。大きな木も吹き倒され、枝などが吹き折られたのが、今を盛りと咲いていた萩や女郎花などの上に横たわっているのは、はなはだ心外な光景だ。格子の目などに、木の葉をわざわざ念入りにしたように、一々ていねいに吹き入れてあるのは、荒れ狂った風のしわざとはとても思えない。)
 立蔀は室内が見えないように庭前に立てるもの、透垣は庭を仕切るのに用いるもので、どちらも手軽な障壁。大風が吹けば飛んだり、壊れたりするのは当然。でもこの日の野分の風は予想をこえた被害をもたらした。大きな立木が根をあらわにして倒れ、その下敷きになった萩や女郎花のあわれさ。これらは風の力を遺憾なく証明するものだが、同時にその風は、格子の一間(ひとま)一間に木の葉を吹き入れるという細かな芸当もやってのけてもいる。作者の関心は、日常とは違う景観を現出した風の力の働きなのである。そして、その視覚の働きは、めまぐるしく、知的にその結果の一つ一つを追い、拡散していく視野を生み出すようなスケッチ風な優れた筆法である。また、台風の猛々しさと、その繊細さを「あはれにをかし」ととらえた清少納言の感覚に魅せられてしまうのである。

*お詫び 前回の「長月ばかり」章段を128段としましたが、正しくは125段でした。訂正いたします。