曾良を尋ねて (111)           乾佐知子

─ 「曾良旅日記」に関する一考察 ─

 10月10日 卯の刻、上野を立。四、五丁、翁、路通送る。(後略)
 上野を発った曾良は一人で江戸に向かった。桑名から船に乗り翌11日伊勢長嶋に着く。ところが12日から21日までの10日間の記述がなく、その間長嶋に滞在していたものと思われる。
 22日再び出発した曾良は、その後舟の出ないアクシデントに見舞われたが、ひたすら江戸を目指し、遂に11月8日江戸日本橋の鈴木町に着く。鈴木町は現在の京橋2丁目あたりという。然しここは自宅の深川ではないので誰の家に泊まったかは不明である。
 〝9日 源右殿へ行く〟とあり、旅に出る前の3月に生活用品や本を預けた師の吉川惟足の家と思われる。恐らく長旅の帰還と御礼の挨拶に行ったのであろう。13日になってようやく深川五間堀にある自宅に戻った。
 当時の江戸地図を見ると、すでに浅草川(今の隅田川)の両岸には大きな武家屋敷が並んでおり、地方の大名達の屋敷や寺院の名前も見られ、後世には諏訪家の屋敷もあることから、そのどこかに身を寄せていた可能性がある。
 芭蕉もいかにも古ぼけた庵に住んでいたかのようなイメージがあるが、伊奈半十郎の敷地内の立派な二軒長屋であったことが判明している。
 実に江戸を出発してから帰着まで222日。その半分以上の日々を芭蕉と共に過ごした。見知らぬ土地で俳人宅を探すのも、日々の宿の心配から支払いの苦労まで全て曾良に任されていた。芭蕉の体の気遣いや、馴れない地方の言葉や習慣に四苦八苦の毎日であったことであろう。
 しかし、彼はひたすら自らの任務を黙々と遂行していった。彼の旅日記を見た後世の研究者達は、その緻密さと計算された内容に圧倒されたのである。
 毎日歩いた距離や天候、時間、番所の様子、その日会った人物等々、全て最小限の言葉で正確に記述している。しかも実に、200日以上の長きに亘っているのだから驚きである。曾良の並外れた忍耐力なくしては到底出来ることではない。
 この「曾良旅日記」は『おくの細道』の第一級史料であり、この旅日記なくしては、俳壇における「細道」の研究はこれほどの発展はなかったであろう。
 こうして曾良の〝みちのく〟への旅は終わったのである。しかしこの旅は曾良にとって、新たな任務の始まりでもあった。
 元禄2年10月10日に伊賀上野で芭蕉と別れた後、曾良は京にいる芭蕉に江戸に帰るよう何度か手紙を出すのだが、一向に戻る様子のない芭蕉を案じて2年後の元禄4年3月4日に再び京へ向かうのである。