日本酒のこと (28) 安 原 敬 裕
「清酒酵母菌の開発競争」
葡萄から醸すワインは、葡萄そのものに水分、糖分と酵母菌が含まれているため、葡萄を潰してタンクに入れるだけで自然に発酵します。その一方で、日本酒の場合は、米自体に糖分や酵母菌が含まれている訳ではないので、麴菌でお米を糖化した上で酵母菌を加えて発酵させる必要があることは、これまで何度も述べてきたところです。
日本酒造りにおいては米、水、麴菌等がそれぞれに大切な役割を担っていますが、その香味に最も大きな影響を与えるのは清酒酵母菌です。その酵母菌には従来から秋田の「新政」の6号や諏訪の「真澄」の7号等がありますが、特許権を設定しておらず実費を払えば自由に使用できることが日本酒の世界の伝統的な美風でした。
ところが、昭和50年代後半以降の吟醸酒ブームの中で、洋ナシやデリシャスリンゴ等のフルーツ香の引き立つお酒、或いはもっと爽やかでシャープな飲み口のお酒をと、消費者の要求水準は年々高くなっていきました。そのような流れのなかで平成の御代に入って以降は、酒蔵と都道府県の工業試験場等が連携して他の地域と差別化できる個性ある清酒酵母菌の開発競争にしのぎを削るようになったのです。
従来の清酒酵母菌の開発は、既存の優良酵母菌を交配して新しい酵母菌を造るという、今からすると極めて単純な方法で対応していました。更には花酵母菌に代表されますが、薔薇やジャスミン等の花の蜜に宿る野生酵母菌を採取することにより、日本酒に新風を吹き込む新しいタイプの酵母菌を発見し開発してきた経緯があります。そして最近はバイオ酵母菌と総称されますが、バイオテクノロジーの最新技術を駆使した新しい清酒酵母菌の開発手法が主流となり、ここに各都道府県の工業試験場の出番がありました。
一例として、焼津市の「磯自慢」や静岡市の「臥龍梅」、藤枝市の「初亀」等の銘酒で有名な静岡県のケースを紹介します。県の酒造組合と工業技術研究所は、目標とする日本酒のコンセプトを「酸度の少ないマイルドで吟醸香の高い日本酒」と設定しました。そして、それに近い香味のお酒を造っている幾つかの酒蔵の清酒酵母菌を抽出します。その上で、バイオ技術を活用しながらこれら酵母菌を組み合わせ交雑する工程を何度も積み重ねることにより、静岡県独自の酵母菌の開発に成功したのです。それ以外にも酵母菌の突然変異の利用、遺伝子染色体の活用等と複雑多岐な手法がありますが、単なる日本酒の愛好家が立ち入るには専門的すぎる領域なので具体的な説明は割愛します。
現在では静岡酵母、秋田流花酵母、長野アルプス酵母等の他に山形、福島、石川、茨城、広島、愛媛、佐賀等の多くの地域で独自に開発された清酒酵母菌があり、中には門外不出や企業機密扱いのものも少なくありません。いずれにしても、熾烈な清酒酵母菌の開発競争のおかげで、日々進化する日本酒を楽しめる幸福に感謝したいと思います。
酒袋干さるる蔵や初つばめ杉阪大和
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