韓の俳諧 (50)                           文学博士 本郷民男
─ 修行時代の日野草城③ ─

 日野草城が1907年京城の尋常小学校に入学したものの、反日運動の激化で二学期からは堺市に避難して、そこの小学校へ転校したと書きました。けれども、1年もしない内に、京城へ戻ることができました。最初に入学した学校は分教場でした。本校は市内の中央にあったので西部の居留民のために、南大門と呼ばれる崇禮門(ス ンレムン)の近くに、分教場がありました。1908年4月に、居留民団立第二尋常小学校として独立しました。校舎が間に合わず、移築や新築で9月に十四学級を収容する建物が完成しました(『京城府史』2巻795頁)。韓半島が日本に併合されたのが1910年です。だからみな公立ではなく私立の学校で、月に一円の授業料が必要でした。草城は1908年に第二尋常小学校の二年生へ転入しましたが、校舎が完成した9月かも知れません。1910年以後に、南大門公立尋常小学校と改称したのでしょう。
 五年、六年の同級生(井出青牛「日野君の小学時代」と担任(神田省二「草城小学時代の思い出」)の手記により、小学校時代の草城のようすがわかります。日本へ併合直後の京城には、千人以上の生徒を収容する七つの尋常小学校があり、中でも二千数百人を収容する南大門尋常小学校は、最大の規模でした。学級は男女別で、高学年男子の甲組は能力のある生徒を集めた進学学級でした。
 草城は五年、六年とも甲組の級長でした。授業は草城の「起立・礼」の号令で始まり、号令で終わりました。草城は眉目秀麗で言語明瞭の名級長でした。甲組は遅くまで進学指導が行われ、五人に一人しか入れないといわれた京城中学校に殆どが入学という秀才ぞろいでした。草城は総代として卒業証書を受け取りました。井出によると、草城は紺地に白の水玉絣に腰高の袴を締め、いかにも良家の育ちを思わせました。
 南大門こと崇禮門は1398年の創建でソウルの正門です。家や商店が密集して浅草や天王寺のような雰囲気です。当初は西大門の官舎であった草城の家は、龍山(ヨンサン)の官舎に移っていました。今のソウル市龍山区で、南大門の東南です。草城の父は主任級で最初は二軒一棟の五等官舎でしたが、一戸建ての四等官舎に移りました。どちらも相当に庭が広くて、鉄条網で囲まれていました。鉄条網の目隠しに連翹の垣根があり、春には一面の黄色い花が咲きました。
 担任の神田省二は草城について、学徳に優れるのみならず、上品で貴公子の相を備えていたと書いています。神田の36年間の教員生活でも、稀に見る秀才でした。
 崇禮門は朝鮮総督府に最も近い大建築なので、国宝第一号に指定されました。韓国の時代になっても国宝第一号です。ただし、2008年2月に放火で全焼しました。突貫工事で2013年に復元し、国宝第一号も維持されました。日本なら国宝解除ですが。