日本酒のこと  (35)                     安 原 敬 裕

「日本酒の季語、その不都合な現実」

 日本酒は、稲作文化とともに古来より我が国の生活に深く根差した国酒です。それだけに日本酒にまつわる季語は実に多彩であり、春の「花見酒」、夏の「冷酒」、秋の「月見酒」「紅葉酒」「温め酒」、冬の「杜氏来る」「寒造」「雪見酒」「燗酒」等があります。
 その中で、私はこの欄で「新酒」が秋の季語になっていることに異論を唱えました。理由は、酒を造る杜氏が酒蔵に来るのは11月に入ってからであること、そして「寒造」の季語があるように日本酒は寒い冬の時期に醸されている実情にあることから、現実問題として晩秋に「新酒」を搾ることはありえないからです。なお歳時記では、「昔は農家が新米で新酒を造っていたから」と説明されていますが、120年以上前の明治の御代から、酒造業免許を持たない農家の造る日本酒は密造酒として違法取締まりの対象となっています。
 ところで、何故に日本酒は「寒造」に適しているかについては、既に何度もこの欄で触れていますが、酒造りの大敵である雑菌を防ぐには冷たい気温を、また清酒酵母菌の発酵には冷たい水を必要とするからです。しかし、灘や伏見等の大手の酒造蔵はかなり以前から酒蔵全体を冷暖房完備の近代工場として整備しており、これに中規模の酒蔵が追随しているのが現状です。つまり、冷たい気温と水は、今や年間を通じて確保できるのです。
 それ以上に大きな理由として、南部や越後、丹波等の杜氏や蔵人は農作業を終えた後の農閑期である冬場の出稼ぎ仕事として全国の酒蔵に来て働いていたことがあります。しかし今や農閑期の出稼ぎは死語になりつつあり、現実問題として蔵人の志願者は激減しています。このため、各酒蔵は杜氏や蔵人を季節的な出稼ぎ労働者としてではなく、通年雇用に切り替えています。また杜氏等も大学等で醸造学を学んだ卒業生とか、蔵元の社長や子供が務めるケースが増えてきています。つまり、日本酒造りの技能集団である杜氏と蔵人についても、1年を通じて安定して確保できるようになったのです。
 以上のように、今や日本酒は1年365日24時間いつでもどこでも造れるという環境にあり、そのような酒蔵が年々増加してきています。そのことは、冬の季語として定着している「杜氏来る」も「寒造」もやがては死語となる運命が待っているという、全くもって不都合な現実があるのです。加えて、最近は「ボジョレー・ヌーボー」等のワインの新酒ブームに便乗して、これらの酒蔵が晩秋に「新酒」とのラベルを貼った酒を臆面もなく販売してきております。       以上のように日本酒の醸造の環境は大きく変化しております。しかし、日本酒造りの原点は「寒造」であるとの我が国の風土と伝統文化に根差した意識は今後とも変わることはないと、私は楽観しております。

神楽宿竹の器で酒を飲む蟇目良雨