子規の四季(82)  最後の夏             池内けい吾

 明治三十五年(1902)7月1日。「日本」に連載中の『病牀六尺』が五十回に達した。この回の内容は、病者にとっての空間を考察したものである。

 
 肺を病むものは肺の圧迫せられる事を恐れるので、広い海を見渡すと洵まことに晴れ晴れといゝ心持がする が、千仞(せんじん)の断崖に囲まれたやうな山中の陰気な処には迚(とて)も長くは住んで居られない。四方の山に胸が圧せられて呼吸が苦しくなる様に思ふ為である。それだから蒸汽船の下等室に閉ぢ込められて遠洋を航海する事は極めて不愉快に感ずる。住居の上に就いても余り狭い家は苦しく感ずる。天井の低いのは殊に窮屈に思はれる。蕪村の句に
     屋根低き宿うれしさよ冬籠
といふ句があるのを見ると、蕪村は吾々とちがふて肺の丈夫な人であつたと想像せられる。此頃のやうにだんだん病勢が進んで来ると、眼の前に少し大きな人が坐つて居ても非常に息苦しく感ずるので、客が来ても、なるべく眼の正面をよけて横の方へ坐つて貰ふやうにする。  
 

 いつも横臥している病人には、眼の高さといってもわずか五寸ないし一尺くらいなもの。眼の前三尺のところに高さ一尺の火鉢が置いてあれば、それは坐っている人の眼の前にある三、四尺の高さの火鉢に匹敵すると子規はいう。病者である自身を客観的に見つめ、「病牀六尺」に象徴される病者にとっての空間を端的に切り取って見せた文章である。
 7月10日、雨。碧梧桐がやって来て、紐を引くと横長の胴に垂れ下がらせた布地が一斉に動いて、風を送る装置を取りつけてくれた。根岸の床屋の天井にある扇風機の構造をヒントに、考案したものだという。子規は風の快さを大いに喜び、『病牀六尺』六十八(7月19日掲載)にこう記した。  

 
 此頃の暑さにも堪へ兼て風を起す機械を欲しと言へば、碧梧桐の自ら作りて我が寐床の上に吊り呉れたる、仮に之を名づけて風板といふ。夏の季にもやなるべき。
    風板引け鉢植の花散るほどに
 
 7月16日掲載分からの『病牀六尺』は、三回にわたって女子教育の必要を力説する。

   
 女子の教育が病気の介抱に必要であるといふ事になると、それは看護婦の修業でもさせるのかと誤解する人があるかも知れんが、さうでは無い、矢張普通学の教育をいふのである。女子に常識を持たせやうといふのである。(中略)平和な時はどうかかうか済んで行く者であるが病人が出来た様な場合に其病人をどう介抱するかといふ事に就て何等の智識も無い様では甚だ困る。女の努むべき家事は沢山あるが、病人が出来た暁にはその家事の内でも緩急を考へて先づ急な者だけをやつて置いて、急がない事は後廻しにする様にしなくては病人の介抱などは出来る筈が無い。(中略)其常識を養ふには普通教育より外に方法は無い。どうかすると女に学問をさせてそれが何の役に立つかといふて質問する人があるが、何の役といふても読んだ本が其儘役に立つ事は常にある者では無い、つまり常識を養ひさへすれば、それで十分なのである。

 
 子規の介抱をしているのは主として妹・律である。上の内容は、律を念頭に書かれたものに違いない。家族だけでは手が廻り兼ねるため、この年の1月からは看護輪番表が作成され、虚子、碧梧桐、左千夫、鼠骨、義郎らの門人たちが、一日交代で看護を助けていた。看護輪番表は、原稿用紙に墨書されたものが病間に貼られていたようだ。
 この夏の子規は、『病牀六尺』などの執筆のほかは、ほぼ毎日のように麻痺剤を服用しては「果物帖」のための写生に精を出している。7月に入って描いた果物は、2日に山形の桜の実、10日に巴旦杏、16日に夏蜜柑と茄子、23日に甜瓜と梨、24日に西洋林檎と日本林檎、25日に初冬瓜 と莢隠元、26日には中村不折宅から贈られた李といった具合である。
 7月26日、兵庫方面へ出かけることになり当分会えないからと、佐藤紅緑が暇乞いに訪れた。弘前出身の紅緑は「日本」新聞社で子規を知り、俳句の手ほどきを受けた。本名の洽六(こうろく)から子規が名づけた俳号が紅緑であった。
 7月28日掲載の『病牀六尺』に、子規は自身の面会日について記した。
 

 毎週水曜日及日曜日を我庵の面会日と定め置く。何人にても話しのある人は来訪ありたし。但し此頃の容態にては朝寐起後は苦しき故、朝早く訪はるゝ事だけは容赦ありたし。病人の事なれば来客に対しても相当の礼を尽す能はず、あらゆる無礼を為すは勿論、余り苦しき時は面会を断る事もあるべし。其外場合によりて我儘をいひ指図がましき事などをいふかも知れず。是等は前以て承知あらん事を乞ふ。話の種は俗雅を問はず何にても話されたし。学術と実際とに拘らず各種専門上の談話など最聴き度しと思ふ所なり。短冊、書画帖など其他総て字を書けとの依頼は断り置く。又面会日以外は面会せずといふわけには非ず。