子規の四季 70 果物帖
池内けい吾
明治35年(1902)6月27日(金)。
この日、子規は「果物帖」を画きはじめた。連日モルヒネを服用するほどの病苦をまぎらわすため、画帖に身辺の果物を写生しようと思い立ったのである。大好きな果物を、これも大好きな絵にすることは、子規にとって何よりの慰めになったことだろう。残されている「果物帖」の見返しには、こんな記述がある。
明治三十五年七月十六日 病子規
蘇山人とは、子規門の俳人でもあった本名を羅朝斌という清国人。清国公使館通訳官だった羅庚齢の庶子として、明治14年長崎で生まれた。母は日本人女性小島氏、素姓は不明である。明治32年1月、「万朝報」の懸賞小説に第1等で入選し文壇にデビュー。翌2月には子規庵の句会に弁髪唐服の姿を現し、俳人としても知られるようになる。所用で大陸へ旅立つ際、画帖を持参して子規に揮亳を頼んだまま、明治35年3月に亡くなった。まだ22歳の若さであった。
子規に託した画帖は、そのまま形見となったわけだ。蘇山人は画帖を子規に渡す前に、下村為山にも2枚の絵を画いてもらっていたものと思われる。
「果物帖」には、6月から8月まで断続的に果物のスケッチがつづいている。まず初日は青梅が画かれている。
六月二十七日雨 青梅
六月二十八日雨 初南瓜
七月二日雨 山形ノ桜ノ実
七月十日雨
昨日来モルヒネノ利キスギタル気味ニテ昼夜昏々夢ノ如ク幻ノ如シ食欲少シモ無シ 今朝睡起漸ク回復す 午餐ヲ食シ了ツテ巴旦杏ヲ喫ス 快言フベカラズ
いうまでもなく、この日の「果物帖」には巴旦杏が画かれている。同日、子規にはもうひとつ嬉しい出来事があった。
子規の病間の天井に、碧梧桐が起風器(扇風機)の構造を参考にして、紐を引くと横長の胴につけた布地の垂れが動いて風を送る装置を取りつけてくれたのだ。子規は「風板」と名づけて、大いに喜んだ。『病牀六尺』には、こうある。
此頃の暑さにも堪へ兼て風を起す機械を欲しと言へば、碧梧桐自ら作りて我が病牀の 上に吊り呉れたる、仮に之を名づけて風板といふ。夏の季にもやなるべき。
風板引け鉢植の花散る程に
七月十四日小雨 桃二顆
七月十六日曇 夏蜜柑又夏橙
同 日 茄子
七月二十二日晴 天津桃
七月二十三日雨 甜瓜一ツ梨二ツ
七月二十四日雨 西洋リンゴ一
日本リンゴ四
七月二十五日晴 初冬瓜
莢隠元 三度豆
ふるさと伊予では、莢隠元、隠元豆などという名称よりも、3度豆の方が一般的だったのである。
七月二十六日曇 李 此李ハ不折留守宅ヨリ贈ラル
其庭園中ノモノナリ
李は、フランスへ留学中の中村不折の留守宅の庭で採れたものが、果物好きの子規へと贈られたのであろう。そういえば子規が「果物帖」に絵を画いている水彩絵具も、不折から贈られたものである。
「果物帖」には、李の画のあとに為山の画がある。
七月二十七日曇 越瓜 シロウリ
胡瓜 キウリ
七月二十八日曇 枝豆 アゼ豆トモイフ 碧梧桐ト話シナガラ画ク
ふるさと伊予では、大豆の大部分は水田の畦に栽培され、畦豆と呼ばれていた。東京へ出て、はじめて枝豆という名称を知ったことなどを、同郷の碧梧桐と話したのだろうか。
七月二十九日曇 古くるみ
古そらまめ
(この間に、為山の二枚目の画がある)
七月三十一日晴 バナナ
八月一日晴 玉蜀黍 タウモロコシ タウキビ
八月六日晴 鳳梨 パインアツプル アナナス
青梅をかきはじめなり果物帖
南瓜より茄子むつかしき写生哉
病間や桃食ひながら李画く
画かくべき夏のくだ物何々ぞ
画き終へて昼寝も出来ぬ疲れかな
なお、子規は「果物帖」につづく「草花帖」を、8月1日から20日まで画いた。「果物帖」および「草花帖」の子規自筆の原本は、国立国会図書館に収蔵されている。
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