曾良を尋ねて (107)           乾佐知子

  ー『奥の細道』最終章に関する一考察―

  芭蕉は8月21日に大垣に到着していた。其の後は伊勢の遷宮を参詣し、伊賀上野の生家に行く予定であった。この知らせが大智院にいた曾良のもとに届いた。
 『奥の細道』最後の一章である。
    (前略)駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合ひ、
      越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口親子、其外した
     しき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いた
     はる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮
     おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
 前川子とは塔山の別号で、荊口親子とは此筋と千川のことである。これらの名前は、度々出てくるが、半年前深川の連句の会にいた大垣藩の武士の面々で、陰で支えた人物達である。芭蕉が無事大垣に着くや、曾良よりも早く駆け付けて無事を悦び合った。
 つまりこの旅は出発から太平洋側を水戸藩が見守り最北点の象潟に着くと突然謎の男“低耳〟が現れて、その後の日本海側を大垣藩が引き継いだものと思われる。この説は光田和伸氏の著書『芭蕉めざめる』に詳しく述べられており、充分納得出来るものであった。
 当時の幕府にとって現状は未だに強固なものとはいえず世間の情報や特に諸藩の動向は、最大の関心事であった。
 その昔、大垣城は石田三成が関ヶ原の一戦に備えて入った城として有名で、家康も大坂方に備える要として重要視し、1630年代より戸田家の領有する所となった。堅実な戸田氏鉄の治世は18年に及んだ。その間新田開発や治山治水事業を奨励し、また林羅山から儒学を学ぶなど、二代氏信と共に藩の基礎をつくり、幕末まで続いた。
 このような大藩が後楯となっていたわけで、芭蕉と曾良の存在がいかに並はずれた人物であったかがよくわかる。
 芭蕉の出身は藤堂髙虎を祖にもつ津藩であるが、伊勢国伊賀国一円をおさめる藤堂家の一族であることから、軍事力の強化に力を注ぎ、幕府からの信頼も厚かった。
 芭蕉が一種の隠密の幇助要員として見られていたことはすでに述べた。実際に藤堂藩には無足人として有事に備え補助的軍事力として実践的性格を持つ者がいた。それらは〝伊賀者〟と呼ばれ、髙虎は情報収集や身辺警護に使っていた。加判奉行の元に20名位いたという。彼らは全国の仕事先でさまざまな職業人となり関所を通らなければならない。俳諧師になった者は、その場で一句、二句を諳んじねばならず、その師として芭蕉の存在があったのではないか、と考えられている。
 情報伝達の場として連句の会が最適とされており、芭蕉の旅が所によっては一気に進んだり、又8泊したりと不自然な日程であったことも頷ける。