曾良を尋ねて (127)           乾佐知子
─長島松平家断絶に関する一考察 Ⅱ─

 松平家断絶により藩の記録は四散してしまった。従って離散したのちの松平家家臣の動向も殆ど判っていないという。これが現在の長島の歴史を探る上で、大きな支障となっている。後年多くの研究者が、松平藩のことについてさまざまな探究をしているが、よく判らない、というのはこの為である。
 ではその断絶の原因をつくった松平忠充とはいかなる人物であったろうか。この忠充と曾良との接点はあったのかどうか、これより探ってゆきたい。
 曾良こと河合惣五郎が長島藩を致仕して江戸に上ったとされる延宝7年(1679)以後、それまで藩主であった松平良尚は天和3年(1683)8月中風を病み、2年後の貞享2年に剃髪して「全入」と号して隠居した。
 その後封を嗣いだのが嗣子忠充で、同年10月7日長島藩主となった。忠充の長島領内入りは貞享3年(1686)7月21日であったという。その時から元禄15年(1702)この事件を起すまでの16年間は忠充が藩主であった。(岡本耕治「曾良長島日記」)
 忠充の出生は「承応元年(1652)」であるから、曾良の方が3歳年長ということになる。ほぼ同時代を生きたといえよう。
 しかしこの二人に、はたして接点らしきものがあったか、ということは確かな資料があるわけではないので推測するしかない。
 忠充の出生は長島城であるが、幼少の頃長島を離れ、江戸常盤橋の長島藩邸内で育っている。ちなみに、この屋敷の真ん前に芭蕉の人生に大きく関わった伊奈半十郎の大屋敷があったことは、以前書いた。
 11歳で将軍に謁見した忠充は封を嗣ぐ19歳まで長島には来ていない。従って諏訪にいた曾良の長島定住が19歳とすれば、この時期に両人が長島で会う機会はなかった。
   次に可能性として考えられることは、忠充は江戸在住の折、吉川惟足に教えを請うていたのではないか、という事である。封を継ぐ前の29歳の時、自らの産例神である八幡社に勧請をしており、その1年前に惟足に入門していた曾良もこれに関わっていたのではないか、といわれているが、これも定かではない。
 また曾良は元禄2年と4年に長島を来訪しており、その折に大智院を寄願所としている忠充のことは聞いていたと思われる。以前は良尚に仕えていた、とはいえ藩主が一度致仕した家臣と簡単に会うとは思えない。従って曾良と忠充の接点はほとんどなかったと推測される。
 しかし、忠充の弟の良兼とは確かな結びつきがあった。越後村上藩筆頭家老である榊原家に養嗣子として入っており、曾良と芭蕉が奥の細道の旅の途次で墓参をしたことは以前書いた。「曾良随行日記」の内容から村上藩との親密な関係が偲ばれるだけに、長島藩の改易、松平家断絶の衝撃の深さは計り知れない。曾良の第2の心の故郷は大智院や旧知の家臣達が居ればこそ立ち寄る意味があり、これ以後の曾良の長島来訪は二度となかった。