曾良を尋ねて (141)           乾佐知子
─曾良は松平忠輝の「御落胤」か─

 古来、曾良研究に携わった多くの先人達が共通して感じることは、実に謎めいた生涯を送った人物である、ということだ。この〝謎〟は300年以上経った今も明らかにされていない。何故であろうか。それは当時の資料が少ないことと、真実を明かせない事情があったと考えられる。
 第一の疑問が出生後の複雑さである。全てはここから始まっているといえよう。研究者の方は先ずこの時点で違和感を持たれる。
 この件については以前から何度も触れているが大事な所なので再度説明したい。
 曾良は慶安2年(1649)信州の諏訪藩城下で酒造業髙野家の長男として生まれた。幼名与左衛門。その後二軒隣りの母の里である銭屋河西家に引取られ4歳まで養われる。さらに伯母の嫁ぎ先である岩波家に養子として迎えられて岩波庄右衛門正字と名乗る。しかし12歳の時養父母が相次いで病没した為に19歳で伯父を頼って遠い伊勢の長島へ移るのである(本稿⑪⑫回参照されたし)。この幼児期における目まぐるしい境遇が、曾良のその後の波乱に満ちた人生を暗示しているといえよう。
 伊勢で曾良はさらに長島藩に仕官する為に河合源右衛門長征の名跡に入り、河合惣五郎と名乗る。何故岩波家の名前では駄目だったのか。地元の研究家の岡本耕治氏によれば、その当時の資料はほとんどないので調べようがない、と言われている。更に10年位在籍していた長島藩の名簿にも名前がない、とのことで不思議なことと言える(本稿⑪回を参照)。実はこのように次々と姓名を変えるには理由があった。それは一商人の子供に士分の資格を与える必要があったからだ。
 母の里である河西家は銭屋の屋号通り金融業の豪商であった。酒造りも手懸けていて諏訪藩の御用商人として、城中の者とも昵懇であったと思われる。
 当時髙島城には家康の六男松平忠輝が蟄居中であった。35歳で諏訪藩にお預けの身となり、すでに20年余りの歳月が経過していた。幕府の監視もゆるやかになっており、時折城下を散策した可能性もある。忠輝に関しては本稿⑨⑩回に詳しく述べたので参照されたい。
 この忠輝と曾良の出生を結びつけるのは推測が過ぎる、と異をとなえる方もいられるが、私はやはりこれだけ多くの謎を解明する為には忠輝の「御落胤説」以外考えられないと思っている。最近この説に早くから確信を持って書籍を出版した方もおられ心強い。
 一番顕著に判りやすいのが「奥の細道」の越後村上での一件である。その日の松平家の曾良への扱いは、まさに親戚筋に匹敵する丁重なものであった。家老が自ら餞別を渡すなど家臣に対して有り得ないからだ。翌日は良兼公の墓前に案内された。曾良はそこで号泣しており、その一両日のことを「曾良随行日記」に単々と、しかし克明に記している。
 私はこの曾良に対する松平家の処遇から曾良が当家と深い繋りを持つ者であることを確信したのである。本稿97,98 回参照されたし。