曾良を尋ねて85 乾佐知子
伊達騒動の原因 そのⅠ
前稿で四代藩主綱村の親戚筋がいかに強大であったか、という点は理解していただけたと思う。しかし伊達藩の騒動の原因はもっと他にもあり、複雑で且つ根の深いものがあった。それは政宗の強烈な個性が成し得た独特な藩の形態にあった。
政宗は現在の岩手県南部から宮城・福島及び山形県南部の戦国大名のほとんどを、家臣として召しかかえていた。政宗はこれらの大名クラスの家臣団に巨大な知行を与え、各々が一国一城の主として独自に領地を支配していた。これを知方(じかた)知行といって、その数は百近く存在し、全ての知行高は五十万石を越えていたという。このような家臣が割拠している伊達藩は東北における小幕府の形態をなしており、一門という親戚筋などの諸氏は事実上は大名だったといえる。
このように諸公には類をみない膨大な家臣団を抱えた大藩が、もし藩主を失ったとしたらいかなる混乱に陥るか想像を絶しよう。特に二十を越える親類縁者や家臣の多くは、隣接した山間部に領地を構えており、これらの境界問題が発生しない筈がなかった。
亀千代丸が家督となってから四年目の寛文五年に、伊達式部宗倫(むねとも)(忠宗の四男)と伊達安芸宗重の間で谷地、つまり湿地帯の境界線を巡って大規模な紛争が起った。
この場合の谷地とは北上川沿岸に拡がる広大な湿地帯で、現在は一望の美田となっているが明治時代までは無数の沼が散在する野谷地であった。この土地に対する境界紛争を、安芸宗重が幕府に上訴した為、この紛争が世間の知る所となり伊達騒動が展開する最も重要な事件の発端となったのである。
伊達安芸宗重とは本姓は亘理(わたり)氏で先祖は関東の御家人、千葉介平常胤(つねたね)から出ている。常胤は文治五(1189)年の頼朝の奥州征伐に従軍し、そのまま奥州に土地を与えられた。
この奥州征伐は義経追討の立前であったが頼朝の真の狙いは、奥州の豊富で肥沃な土地と、金山銀山を保有する巨大な山林とそこに生息する野生馬等であった。そして鎌倉幕府の一番の悩みは功績のあった家臣に与える恩賞の土地の不足だった。奥州の雄、藤原氏を滅ぼしそれ等を全て手に入れる為にこの義経追討は最高の口実だったのである。
この奥州征伐は私の大学の卒論テーマでもあったのでかなり詳しく研究した記憶がある。
この宗重の土地も先祖がその奥州征伐で幕府から与えられたもので、その後、子孫が伊達家と血縁関係を結び、数々の戦いに戦功をあげて政宗の信頼を得た。当時は二万六千石の禄高は仙台藩士の最高の所有者であった。
その後宗重は亀千代が家督を命ぜられたときは四十六歳で一門を代表して江戸に登り、多くの藩士から期待を寄せられる存在であった。
寛文五年の境界問題は内々に処理されたが、次いで七年に再び両氏に境界線問題が発生した。この時は検地の実行者が明らかなる不正をして式部宗倫に有利に裁定した。つまり式部に2/3、宗重に1/3で決定された。しかし二年後の実施では宗重には1/5程度しか与えられなかったという。このあまりに理不尽な裁定に激怒した安芸は幕府にこの実情を上訴したのである。
この年寛文九年は、当時十一歳に成長した亀千代丸が江戸藩邸で元服、四代将軍家綱に謁見し、名を綱基と改め従四位下に叙した。
幼君の成長は伊達家にとって明るい将来をもたらす材料ではあったが、その頃の藩内の情勢は予断を許さない程切迫しており、不穏な状態だった。ではなぜ不穏だったのか。その原因について次回は騒動の更なる核心に迫るべく検証してゆきたい。
【訂正】
8月号77頁 伊達氏家系図 左上
誤 ( 矢部少輔)
正 ( 兵部少輔)
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