曾良を尋ねて (88)  乾佐知子

─ 伊達兵部宗勝と酒井雅楽守忠清の密約 ─

 万治3(1660)年。この年四月より小石川堀の修復作業に当っていた綱宗が、僅か三ヶ月余りの短い間の不始末でいきなり逼塞される、という突然の出来事に加え翌日の四名の近習の斬殺、その一ヶ月後の亀千代の家督相続及び二人の後見人の決定と次々に引起こされるこれ等の一連の顛末は、ある人物により大分以前から仕組まれていた、と考えられている。
 四名が斬殺された後、実行犯に対して当然評定が開かれ、しかるべき処分がある筈である。ところが主謀者の目付役渡辺金兵衛に対し伊達兵部宗勝は「金兵衛はよくやった」と発言し、その忠志をほめたという(『樅の木は残った』㊤)。つまり金兵衛は宗勝の復心であり、これらの事件は全て彼の指示で動いていたことは明白であった。
 結局この事件は兵部の一言によりうやむやに終ったという。なぜ兵部がこれほど迄に藩内に強い力を持ち得たか、というのには原因があった。
 当時の幕府の老中は酒井雅楽寺忠清であった。万治2年つまり事件の前の年に、兵部は長子八十郎(宗興)(むねおき)と雅楽頭の養女との婚約を決めていた。やがては幕府の筆頭となる勢いの酒井家と姻戚関係になった事は、兵部にとって伊達藩を掌握する為の絶大な力となったのである。
 茂庭家の重要な記録によれば、茂庭定元が小石川普請場に出張していた時、若年寄の久世大和寺より忠清が伊達六十万石を分割して伊達兵部に三十万石、立花他の諸公に三十万石を与え藩を二分する密計があることを伝えられた、というのだ。
 宮城教育大学教授の平重道氏の著書『伊達騒動』によれば、〈関ヶ原没後の外様大名改易時代なら、こうした強硬政策も可能であったかもしれない。しかし家綱の治世に入ると時代の風潮も変転し将軍と大名とが融和する時代になっている(後略)〉とある。
 従って氏はこの伊達家知行の分割説は果して真実であろうか、と疑問視されている。確かに後世の人間が冷静に考えれば、そんなことは有り得ないと思うだろうが、江戸時代の藩士にとって幕府に睨まれることほど恐ろしいことはない。ましてや幕府にとって脅威の存在である東北の大藩伊達家の力を削ぐことは願ってもないことであった。
 兵部と酒井雅楽守が共謀して藩を二分し、兵部が一国一城の主としての野望を成就せんとしているのかも知れない。
 茂庭周防から聞かされた甲斐と伊達安芸は驚愕した。何としてもこれを阻止せねばならない。その為の対策として兵部に悟られぬように秘かに三人で兵部の陰謀に対処して幕府に改易等の口実を作らせないことである、と固く約束した。
 その為には兵部を欺いてその腹心となり、兵部のおこす内部紛争の種を極力おさえるしかなかった。寛文6年に兵部の謀った亀千代毒殺事件で兵部が医師の親子を殺害してしまった時も甲斐は表沙汰にすることなく食中毒で押し通したのである。
 ところがこの年、甲斐が最も頼みとする家老の茂庭周防定元が江戸で四十六歳の生涯を終えた。記録には病死となっているが、あまりにも突然のことで信じがたい。或は兵部がかかわっているのではなかろうか。
 定元は代々伊達藩の家老を務めた権力の絶大な家柄で人望も厚く、潔癖で剛直な人物像は兵部にとってやりにくい相手であったことは確かである。
 更に翌寛文7年、甲斐にはまたもや試練が訪れる。