自由時間 (44) 仮名手本忠臣蔵  山﨑赤秋

 時は元禄15年12月14日(1703年1月30日)と聞きなれているが、実際は翌15日午前3時半ごろのことである。
本所松坂町の吉良邸の門前に赤穂浪士四十七人が集結した。おなじみの揃いの火事装束は芝居や映画での話で、本当のところは、まちまちの頭巾をかぶり、籠手をさし、名前を書いた黒い小袖に鎖帷子を着込んで襷を掛け、色とりどりのたっつけ袴を穿き、足袋に戦陣用の草鞋という出で立ちであったようだ。
 表門と裏門の二手に分かれ、火事だと叫びながら邸内に乱入した。戦闘およそ一時間吉良側は制圧された。しかし、肝心の吉良上野介が見つからない。探索におよそ一時間を費やし、ようやく、台所の横の納戸に誰か隠れていることが分かった。
戸を開けて声をかけると、物を投げてくる。矢を射込むと、屈強な男二人が次々と切りかかってきたので数人で囲んで討ち果たす。まだ誰かいる。声をかけても返事がないので、槍を付けると、脇差を抜いて切りかかってきた。同じように囲んで切り殺す。見るといい着物を着ている。吉良上野介ではなかろうか。
松の廊下で主君が負わせた額と背中の傷を確かめる。額の傷はよくわからなかったが、背中の傷跡は残っていた。首を取って、念のため門番に確認させると上野介様だという。すぐ合図の唐人笛(チャルメラ)を吹いて、裏門に集合をかける。負傷者が六人いたが全員が顔を揃えた。ちなみに吉良側の死者は上野介を含めて十八人、負傷者は二十一人であった。
 午前六時前、裏門から全員引き揚げる。すぐ近くの回向院で幕府の沙汰を待つ予定であったが、寺が後難を恐れて門を開けてくれない。やむなく、主君の眠る泉岳寺に向かう。
永代橋を渡り、鉄砲洲の旧浅野邸前を通り、汐留橋、金杉橋を経て午前八時ごろ泉岳寺に着いた。早速主君の墓に参り、上野介の首を供えて焼香する。そのあと庫裡で食事をとり休息する。幕府の使者が到着したのは午後四時過ぎで、大目付仙石伯耆守邸に全員出頭せよと命を下す。
泉岳寺を出たのが午後六時ごろ、通行止めになった道を歩いて虎ノ門の仙石邸に着いたのは午後八時前であった。武装を解いて足を洗い座敷に入る。大目付直々の尋問が行われ、終わると、細川越中守(三田、十七名)、松平隠岐守(愛宕下、十名)、水野監物(芝、九名)、毛利甲斐守(麻布、十名)の四家へお預けの処分が申し渡される。
午前零時ごろから順次出発し、各家に到着したのは、翌十六日未明のことであった。四家から引き取りのために動員された人数はなんと総勢千五百名に及んだ。
 討入りから49日目の元禄16年2月4日(1703年3月20日)午後2時すぎ、各家に上使が到着し、判決が申し渡される。全員切腹。午後4時から切腹が始まり、午後6時には終わる。すぐに遺体は搬出され泉岳寺に向かう。午後8時から葬儀が行われ、主君の墓のそばの、前日から夜を徹して掘らせた墓穴に埋葬された。主君の切腹から1年11ヶ月、ここに赤穂事件は落着した。
 この事件を題材に書かれたのが『仮名手本忠臣蔵』である。わが国演劇史上最高傑作である。初演は寛延元年(1748)、松の廊下刃傷事件から47年後、赤穂浪士の人数を意識したのかもしれぬ。時代は南北朝時代に移し替えられ、登場人物の名は違い、史実といえるのは、殿中での刃傷、即日切腹、城明け渡し、討入りくらいであるが、この作品によって「忠臣蔵」は国民的な言葉となった。
 開場五十周年を迎えた国立劇場は、その記念に文楽・歌舞伎双方で『仮名手本忠臣蔵』全十一段を通しで上演している。うれしいことである。特に11月歌舞伎公演(道行旅路の花聟、五段目~七段目)は、菊五郎と吉右衛門が揃った珠玉の舞台であった。