「晴耕集」6月号 感想                     柚口満  

大銀杏朝日揺らして芽吹きけり生江通子

 銀杏というとどうしても秋の黄葉の美しさが話題になり、東京だと神宮外苑の長い銀杏並木の黄金色の黄葉と通りを埋める黄の絨毯を愛でに人が集まる。
 しかし、その銀杏の芽吹きの風情を詠んだ俳句も捨て難い。掲句は古く大きな銀杏が芽吹き、日に日に葉が育つさまを活写している。朝日を浴びる芽吹きはまさに生命力への賛歌である。
 余談であるが、銀杏の新芽はわずか5ミリぐらいでも銀杏の葉の形を成しているのを観て、大いに感動したことがあった。

異国へと帰る機影か鳥曇乾佐知子

 花曇という季語の頃に鳥曇という季語もある。秋の季節に日本へ渡ってきた雁や鴨などの渡り鳥が春になり北へ帰る頃の曇り空をいうのである。花曇と異なるのは鳥たちが曇り空へと消え去る姿に惜別の情と哀歓を覚える点にある。
 この句の作者は異国へ旅立つ旅客機の機影をみながら、その機内の旅人と渡り鳥を重ね合わせて帰路の安寧を祈ったのであろうか。季語の鳥曇が生かされている句と言えよう。

地に顔を近づけて蒔く花の種窪田明

 物種蒔く、の傍題に花種蒔くがあるがその他、鶏頭、胡瓜、茄子、朝顔の種などを蒔くのも含まれ夏から秋にかけての収穫を待つための作業である。単に種蒔きというと籾蒔きのことをさす。
 花の種を蒔くにはいろいろなコツがある。小粒でもあり軽いから風にも注意しないといけない。そこで句のように地面に顔を近づける慎重さを求められる。秋に咲く花の美しさを思いながらの作業であり作者の優しい心根が伝わってくる一句である。

群れなして背鰭を競ふ乗込鮒中島八起

 私は近江の生まれなので晩春の頃の乗込鮒の姿は幾度も目にしている。乗込鮒というと藤田湘子が詠んだ「春鮒に虹をかけたる近江かな」がすぐに浮かび好きな一句でもある。
 この句は数尾の乗込鮒の背鰭に焦点を当てた句で激しく水路の面を叩きながら遡上する豪快さがよく出た作品、乗込鮒の句の肝要なところは「勢い」があるかで決まってくる。

校門を出れば卒業ああ母校平賀寛子
まづ教師涙を拭ふ卒業歌沖山志朴

 3月は卒業のシーズン、小学校から大学までのそれぞれの卒業式は未来への希望に加え先生、学友との別れの感慨が交差して大きな思い出となる行事でもある。
 寛子さんの句、式典がおわり校門迄歩を進める間に湧き上がる別離の感傷を押さえきれない。校門を出ればそこはもう母校となる。下五の押さえ方もいい。
 一方、志朴さんは先生の経験のある方である。教師の側から感じた感慨を一句に詠み込んだ。卒業式のクライマックスは卒業歌を歌う段、ここに差し掛かると涙を堪えていた先生はもう我慢ができない。今は卒業歌が流行りの曲に変わりつつあるといわれるが、我々の年代には、やはり「仰げば尊し」がいい。

春眠し大河を渡る貨車の音浅野文男

 梅雨明け前とはいえ外の気温は35度の猛暑の中でこの原稿を書いている。掲句にある春眠という魅力ある心地よい眠りが遥か前のものに思われる。
 中七からの「大河を渡る貨車の音」の描写は、まさに春眠を深く深く誘うのにぴったりだと思う。大河の鉄橋、そこを長い長い貨車が単調なリズムを刻んで進んで行く。的を射た取り合わせの妙である。

恋の猫玄関開けて帰り来ぬ清水恵子
ぴしと尾を立てて出しなの恋の猫小島正

 猫の発情期は年4回ともいわれるが特に早春の頃が最も激しい求愛活動の舞台となる。赤ん坊のような泣き声で愛情を求め、ろくに食事も摂らず幾日も家をあけて歩き回りやつれ果てて帰ってくる。猫の恋は和歌や連歌には殆ど詠まれないが俳諧では滑稽、俳謔味ある季語として多く詠まれている。
 恵子さんの句は数日間家を空けていた猫がご帰還した様子を面白く詠んでいて、くすっと笑ってしまった。
恋に疲れ果てた猫が前足でそっと玄関を開けるさまは人間の恋をも連想させ、いささかのユーモア感も加味されている。
 他方、正さんの一句は上五、中七で発情した雄猫の家を出る様子が生き生きと描写され秀逸である。俳句は斯様に頭で作らず写生をしたいものだ。

子らの来て春の小川となりにけり𠮷村征子

 春の到来を子供たちの行動を介して無駄なく一句に仕立てた技量が伺える。上五で子らの来て、と配しあとは小川は春になりましたよ、と報告しているだけであるがこれで充分なのである。つまり上五の子供たちが出始めた、という表現だけで春の小川の明るさや子供の喜々とした声などは織り込まれているということ。切れ字で結んで座りのいい佳句に仕上がった。