弐万体地蔵開眼木の芽晴川澄祐勝
軒の梅膨らみきしと妻の声高木良多
「晴耕集・雨読集」3月号 感想 柚口満
日照雨きて羽子板市を耀かす石鍋みさ代
日照雨はそばえと読み、俳句の中ではよく使われる漢字であるが独特な言い回しである。日照雨とは地方によっては狐雨、狐の嫁入りなどともいわれる気象用語で、日が照っているのに雨が降る現象でお天気雨ということもある。
この句はその日照雨と歳末の風物詩、羽子板市との取り合わせの句である。金銀をはじめとする色彩豊かな羽子板が並ぶ市にさーっと降りかかった日照雨が美しい歳晩の情緒を醸し出している。
冬至まで切らぬ南瓜のころがれり山城やえ
冬至に南瓜を食するのはどういう意味があるのだろうか。よく昔からいわれるのは南瓜を食べると中風(脳卒中)や風邪を防ぐ、といわれる説。現代風に解釈すれば緑黄野菜の少ない冬に貴重なカロチンやビタミン類を補給し抵抗力をつけるということかもしれない。
作者は秋に収穫した南瓜のなかで選びぬいた逸品を残して冬至に備えたという。下五の「ころがれり」の表現にユーモアが漂い俳諧味を出している。
初富士へ威儀正しゐる烏帽子岩武田襌次
今年の正月、一月三日に春耕有志が集まって江の島を吟行したのであるが、掲句はその日の嘱目吟のひとつである。茅ヶ崎市の沖合、千四百メートルに大きな岩礁群があり姥島と呼ばれる。その中の大きな岩礁が通称烏帽子岩といわれるものである。名前通り烏帽子そっくりな形をしている。
おだやかな空に雪をいただく富士が浮かびその前景には青く広い相模灘、作者にとってはこの上もない嬉しい縁起のいい初富士であった。中七から下五にかけての表現が新年の句としてことに的確だと思った。
饗のこと神と和したる祝膳中島八起
饗(あえ)のことは奥能登、能登町に残る国指定の重要無形文化財の行事である。先年、当地出身の棚山波朗主宰の案内で暮れの十二月にこの催しを吟行したことがあった。
田畑の収穫がおわった十二月、田の神様をそれぞれの家に迎え入れ共に越冬、神様を様々な形で饗応するユニークな行事だ。眼前に田の神がいるように呼びかける所作などが誠に面白い。この句は神様との食事風景である。家の当主は真顔で神様に食べ物の味や、御代りを聞いたりする。その辺の雰囲気を「神と和したる」と捉えてそつなくまとめている。
余談であるが神様をお風呂に入れて湯加減を聞いたり、囲炉裏をもてなす場面などもその会話が面白かったことを覚えている。見学していただきたい行事である。
七味たつぷり義士討入の日なりけり武井まゆみ
元禄十五年、十二月十四日は元赤穂藩大石良雄を中心とする四十七人が吉良上野介を襲い主君の仇を討つた日である。俳句では季語としてこの日を「義士会」「義士討入の日」「赤穂義士祭」としている。
作者は高輪の泉岳寺におもむき、義士それぞれのお墓に線香を手向けたのであろう。そしてその帰路の蕎麦屋で蕎麦に七味をたっぷり振りかけ往時を偲んだのだ。この句、蕎麦を食べる云々を言わず「七味たつぷり」だけに省略したことが成功している。
師走来る平和通りに肉を買ふ広瀬元
師走の沖縄・那覇市の歳末風景を詠んだ一句である。平和通り商店街は那覇を代表するアーケード街で県民はもとより観光客で賑わう場所。食品や衣料品、土産物屋が所狭しと並んでいる。そんな通りの肉屋さんに肉を求めた作者、お正月の料理の食材だろう。お正月に肉料理とは沖縄らしい風土性が感じられる。そういえば沖縄には美味しい肉が各種ある。牛肉は石垣牛、豚は黒毛豚、鶏肉はやんばる地鶏といった具合である。沖縄の肉というと思い出されることがある。昔、本土返還された後に仕事の取材にでかけ、その帰りに肉をお土産に買ったのだ。その頃は誰も買っていた。あれは肉が安価だったからなのか、美味だったからか、その辺がどうしても思い出せないでいる。
小気味好く跳ねてあがりし霰かな菊地ひとし
雪でもなく霙でもない気象状態に霰というものがある。霙は雪が降る時に地表の温度が高いために雨混じりとなったもの、霰は逆に温度が極く低い時に小さい氷の粒になるものをいう。掲句はその降る霰の小気味よさを詠んでいる。白い小粒の霰が地面に勢いよく跳ね続け、少しするとぴたっと止んだという。霰の在り様がよく描写されている。京都辺りでもこういった情景がよくみられ、霰が融けてすぐに地面から湯気が立つのも美しい一場面である。
陶かわく風さはさはと鵙日和小林光美
鵙の鳴き声は秋の日和にこそ引き立つものであろう。一樹の天辺で鋭くキイーキイーとなく声に秋の到来を気付き、秋の深まるのを実感するのである。
どこかの作陶所の庭がこの句の舞台。数多くの素焼きが整然と干し場に並べられ、秋の陽を十分に吸収して気持ちよく乾き続ける。からっとした秋風も干す条件にぴったりだ。鵙の鳴き声を介し気持ちいい句となった。
麦や節泡吹く榾の猛りけり竹内岳
富山県の五箇山地方に伝わる麦や節は越中おわら節、こきりこ節と並び富山の三大民謡と呼ばれている。
掲句にある麦や節は落ち延びた平家一門の人達が山間に入り刀や弓矢を鍬や鋤に持ち替え、農事の際に唄ったとされるもので、在りし日の栄華を偲ぶしみじみとした唄である。
この句、囲炉裏に泡吹く榾の炎が象徴的だ。炉の前で聞く麦や節、その唄に呼応するかのように猛る炎は、あたかも平家の怨念の色だったのかもしれない。
捨てきれぬ古新聞に年惜しむ中村紘子
今月号の句群には年の瀬の感慨を詠んだ作品が多く見られた。ここに上げた句の季語は「年惜しむ」である。一年を振り返り、過ぎ去ってゆくことを惜しむ気持ちを表すもの。
句の上五から中七にかけての「捨てきれぬ古新聞に」のフレーズに注目した。というのは、春耕四月号で作者の中村さんが長年勤めていた新聞記者の職を昨年秋に辞したと同人特別作品中で述べていたからだ。
過酷なマスコミの世界で活躍されたからこその感慨がこの句には籠められている。古い新聞の中には彼女がものにしたスクープをはじめとした数々の記事が眠っている。捨てきれない心境はよくわかる。長年の勤続に敬意を表し新しい分野での活躍をお祈りしたい。
薄氷つぶやくやうに溶け始む百瀬信之
当たり前のことであるが氷といえば冬の季語、そして薄氷は春の季語である。作句に当たってはその本意を充分に取り込みたいものである。この句はその点を留意して面白い視覚、聴覚を働かせて作られている。池の面のごく薄い氷がつぶやくように溶けたというのが眼目だ。溶ける寸前の曖昧模糊とした氷はまさしくつぶやき状態そのもの、説得力のある表現であった。
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