熱帯夜老いては妻に逆らはず川澄祐勝

風捲きて女駈け出す更衣高木良多

「晴耕集・雨読集」八月号 感想   柚口満

卯の花の咲く路地奥のかけはぎ屋池内けい吾

かけはぎ屋とはなつかしい響きをもった仕事である。この生業を現在では街中でみつけることは至って難しい。かけはぎとは衣服の虫食いやかぎ裂きなどを共布を使って修復をする仕事で特に高価な洋服や和服の修復には数少なくなったこのお店に頼ることになる。
掲句、路地の奥に咲く卯の花とかけはぎ屋のとりあわせが絶妙である。かけはぎ屋の地味な在り様がよく想像できるのだ。数年前、小生もやや高価な替え上着を虫にくわれたが処分するにはもったいなくかけはぎをお願いしたことがあった。見事な仕上がりであったが修理代にもびっくりした。

大富士の雲を脱ぎたる五月かな山田春生

この句は五月富士、皐月富士という季語を使わずに5月を季語に据えている。それだけ5月を強調したかったのである。
5月は、梅雨入り前の爽快感に満ちた頃である。新緑が色を美しく違え、気温も安定、快晴の日が続く。
春の頃には霞んで見えた大きな富士山が、うっとうしい雲を脱ぎ捨て眼前にその姿を現した。7合目以上には残雪が輝き裾を彩る木々は日増しに緑を濃くする。絵にかいたような富士山が見られるのは5月なのである。

三面鏡磨き上げたる夏初め池内淳子

この句、普通の鏡でなく三面鏡としたことで俄然面白みが増したのではなかろうか。
初夏を迎えた作者は、気分一新家中の掃除を始めたのである。ほとんどの掃除が終わり、最後の仕上げは自分の部屋の三面鏡である。すこし曇っていた三面鏡、みるみるうちにピカピカとなり正面、左右に映る自分の顔もすっきりさっぱり爽快に顔になっていた。

飾られてはや昂れり祭馬沖山吉和

祭に馬が主人公になるものは全国に結構あるものだと聞くが、私には馬祭りというと昨年6月に見学した盛岡のチャグチャグ馬コを思い出す。郊外の神社を出発した百頭の馬は、鮮やかな装束を身にまとい、大小の数多くの鈴を鳴らしながら盛岡市内までの13キロを行進した。
その馬たちも掲句にあるようにいざ出発前には人間以上に興奮し大きく嘶き身につけたは百余の鈴を大きく鳴らしていたものだった。
馬祭の起源の多くは往年の馬産地に由来する。農耕に疲れた愛馬を癒し、無病息災を神社に祈願するのだ。この句は岩手山を背に、植田に映るチャグチャグ馬コの絵巻物を改めて思い出させてくれた。

水を打つ平常心になりたくて鈴木志美恵

夏の季語「打水」の本意は誰でも知っているように、真夏の暑さを鎮めるために乾ききった庭や周辺の路地に水を打つことである。ことに夕方のそれは木や草や空気はもとより人間もその涼気に生き返るのである。
そんなことをとっくに知りながらこの句の作者は、自分の心の平常心を取り戻すために水を打つという。面白い視点である。たしかに水を打てば物理的に埃も焼け付いた舗装路も落ち着くが、一杓ごとに自分の心を鎮める精神修養という思い、理解できる。

ハンカチの木の花に風あつまれり内田靖子

ハンカチの木の花、ハンカチの花という季語はごく新しい季語でありまだ採用をしていない歳時記も多い。それだけこの木が少なく大衆にまだ縁が少ないせいもあるかもしれない。
垂れ下がる大きな白い包葉がハンカチに見えるこの大振りの花、掲句は付近の風がすべてこの花に集まってくると断定しその大振りの花をクローズアップした。

梅雨寒し人形浄瑠璃藍着せて小野寺清人

この句を読んで1年半前に吟行した阿波の人形浄瑠璃をとっさに思い出した。十郎兵衛屋敷では「傾城阿波の鳴門」を上演しており、巡礼お鶴とその母お弓の場面に観客は涙したものであった。
梅雨寒の1日、当地を訪れたこの作者もこの出し物を見たのであろう。そして母親お弓の藍の縞模様の着物に目を奪われた。阿波は藍の本場、その藍色はあくまで濃く美しく映えていて母と名乗れない母の木偶を包んでいた。梅雨寒と藍色の取り合わせが秀逸だ。

大方の木の花白し夏来る久保田順子

春夏秋冬を彩る花々、たとえば春は黄色の花から始まるともいわれる。いわれてみれば山茱萸の花、ミモザ、三椏の花、連翹、土佐水木等々初春をいろどる花は黄色である。
掲句の作者は立夏を迎える頃の木々の花は大体白いと見抜いている。なるほど梔子の花、泰山木の花、蜜柑や柚の花、朴、栃の花など,このほかにも白い花が確かに多い。
この句のいいのは大きな木々の白い花と夏の到来うまく関連付けたことだろう。。

チューリップ終の一片雨に尽く清水恵子

チューリップは幼稚園児らには大人気の花である。「さいたさいた」といえばチューリップである。また、お絵かきの時間では圧倒的にこの花を描く。
しかし、大人になるとこの花の花びらの不思議さに捉われることになる。1本の茎が真っ直ぐに伸び、その上に不釣り合いとも思われる重そうな花が咲く。そしてなにより花が散るというより一片づつ剝がれ行く儚さに愕然とする。
この句もそんなチューリップの終焉を詠んでいる。一片ずつ壊れたすえに最後の一片も雨で尽きてしまった、その喪失感。

木屑にも神宿るてふ御柱髙島和子

長野県の諏訪大社で行われる御柱祭、ことしは7年に1回のその年に当たった。山から伐り出した樅の大木は山出し、里曳きという行程で各所を引き回される。
大木が地面に擦れるとそのあとには無尽の木屑が街道に残されるのであるが沿道の観衆は大きな木片をいただきお守りとする。7年の想いの籠った神様の木片。

藍染の棹のしたたり梅雨晴間根本孝子

人類で最も古いといわれる藍染、布や糸を染めるわけだがもとの「藍」を作るのも微妙な作業の行程があり、先年阿波の藍作りの達人の話を聞いてその感を強くした。
藍の液に布を浸し引き揚げ空気に触れさせるために棹に干す。その繰り返しで藍の色が深まる。この句は梅雨の晴れ間にしたたる藍染の水滴が印象的。

春落葉使ひ勝手の良き箒宮田充子

この句は中七から下五にかけての表現に心を惹かれるものがあった。いつも使い慣れた箒で掃く春の落葉との対話みたいなものを感じたのである。
晩秋から初冬の落葉樹の落葉はいわばからからに乾いた落葉、一方常緑樹の春落葉はやや湿りけを帯びた柔らかな落葉、箒に音もなく掃き寄せられる春落葉の風情を思う。