青松虫小窓開けある庵二階川澄祐勝
「晴耕集・雨読集」8月号 感想 柚口満
鯉幟地に降り影を休ませり山城やえ
五月の空を悠然と泳ぐ鯉幟、ほどよい風を得た鯉幟は見事に身をくねらせ金色、黒、赤などの大きな鱗を日に輝かせて泳ぎ続ける。
そんな鯉幟が一日中の泳ぎを終え、降ろされたときに詠まれたのがこの一句である。変幻自在な影の動きを投じていた幟はいま嵩ある布として地上にその姿を休めた。「影を休ませり」の表現に昼間の勢いのある動きを再度思い起こさせてくれる。
楡の木に雀の集く夕薄暑朝妻力
外見は欅の木に似た楡の木、しかし実際にはそれとして識別できる人は少ないかもしれない。ニレ科の楡は広葉樹で特徴は大きいものは三十メートルを超す大樹にもなる。木の比較的下から枝を大きく扇状に張り、若葉が密集する景観は素晴らしいものがある。
さて掲句は初夏の楡の木に集まる雀を詠んだ一句。夕方の楡の新樹にひとしきり鳴き合う雀の群れ、そこには一年中で一番気候のよい気分が溢れる一方、木陰や水が欲しくなる気分も微妙に伺われるのである。
いざ夏へ神田の路地の手締めかな武田襌次
前書きに神田祭とある。5月中旬に行われる神田祭は京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭りと呼ばれている。江戸時代には江戸城内に祭の行列が練り込み将軍の上覧もあったことから天下祭とも称された。
今年は二年に一度の本祭りで大いに賑わった。神田っ子には夏祭りの掉尾を飾るのは神田祭という心意気がある。その辺の矜持ともいうべきものが上五の「いざ夏へ」に見事に表現されている。大小二百基の神輿が神田の路地路地を巡行し、威勢のいい手締めが響き渡る。江戸っ子気質が寂びれてゆくなか神田祭はその雰囲気を確かめる数少ない行事のひとつである。
雪形の種播爺や村うごく小野誠一
雪形というのは春になって高山の雪が融け岩肌に残雪が作り出す模様のこと。かってはこの雪形の融け具合を参考にして田植えや種播きの時期を知る目安としていた。
さてこの句はその雪形に「種播爺」が表れてその村が俄かに動き出したという。雪形の謂れのように田植えの準備が始まり冬から春へと一挙に明るい雰囲気に村が一転したのだ。今でこそ気象学等が発達し雪形の効用は少なくなったが、子供たちには語り継ぎたい夢のある話である。ちなみに雪形で代表的なのは爺ケ岳や御嶽山の種播き爺さん、白馬の代搔き馬、五竜岳の武田菱などである。
瓜の苗蔓を伸ばして売れ残る唐沢静男
夏の季語「瓜の苗」を配して実際は苗木市を詠んだ巧妙なテクニックを使った作品。
瓜の苗というから胡瓜、西瓜、南瓜の類だろう。苗八分といわれるようにその出来次第で実の出来が決まるから苗の存在は大きい。市で四、五日扱ううちに苗の蔓が伸び出ししかも売れ残ってしまったという。すくすく育つ苗と売れ残るという皮肉な現象が心にとまる。畑作に精を出す作者であるから何株かはきっと買い求めたに違いない。
取り敢へず飛ぶ構へだけ羽抜鶏松川洋酔
羽抜鶏は六月ごろから晩夏にかけて冬羽から夏羽へ抜け替わる鶏のことをいう。新しい羽が揃うまでの姿は見るからにみすぼらしく哀れを誘うし、人間の目で見ると滑稽にも映る。特に我々の近くに存在する鶏は身近に接す機会が多く様々な感慨をもたらしてくれる。
この句の作者はそんな羽抜鶏の生態をよく観察している。真剣に羽ばたきたくてもそれができない様子を「取り敢へず飛ぶ構えへだけ」と活写した。そこにはこの鶏の自尊心が垣間見られる一方その真顔には哀歓が漂うのである。
若葉風からの牧舎を満たしをり大細正子
初夏の木々が噴き出す若葉のころは一年中で一番爽やかな季節でもある。この句の場所は多くの新樹に囲まれた牧場が目に浮かぶ。
飼われている馬や牛は牧場に放たれ、がらんどうの牧舎は周囲の木々が醸しだす若葉風にたっぷりと満たされる。気持のいい一句。
北斎の浪裏の蒼夏に入る勝股あきを
立夏に詠まれた一句。下地にあるのは江戸後期の浮世絵師、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中の一枚「神奈川沖波裏」である。
作者はこの版画の復刻版をお持ちで、夏になると自宅に掛け替えられるのかもしれない。北斎独特な大胆なあの構図と蒼い波の色に夏の到来を実感された。
鮎の籠嵐気の中を湯宿まで佐藤昭二
清々しい気分が満ちた句である。緑溢れる山野を流れる鮎釣りの川、そこでの鮎の釣果は上出来だったのだろう。
ずっしりと思い鮎の魚籠を引っ提げて今晩投宿する湯の宿へ向う作者、青々とうるおう「嵐気」という言葉が新鮮、夜の膳には鮎づくしが並んだ。
雲となる気配整ふ花樗清水伊代乃
個人的な好みであるが私は樗の花が大好きである。特に十メートル以上の大木に薄紫の花が遠目に靄をかけたように咲くさまは筆舌に尽くしがたい。
この掲句もそんな状態のものであろう。大きな一塊の花樗は青空の下で、ひと風が来ればいまにも雲として流れ出すような気配をみせていた。
祭笛帯にさしこみ担ぎ手に竹内岳
作者は下町育ちであるからこの句は三社祭での一風景かもしれない。三基の神輿の他に各町内の連合渡御で氏子衆はおらが町内の神輿を応援する。
この句が本人の自画像かあるいは嘱目吟かは判らないが、お囃子の屋台からやおら笛を帯に差しこんで神輿の担ぎ手になったというのが眼目。威勢のいい江戸っ子の動きがみえるようだ。
雨意はらむ風に香の来る栗の花冨田君代
栗の花の本意をよく伝えている句である。梅雨である六月ごろに咲く栗の花、青臭い、あるいは生臭い独特な強い匂いが印象的だ。特に句にあるように、今にも雨がふりそうなそんな風に乗る香りはいかにも重々しく感じられる。
塩叺梅雨湿りして牧の小屋藤原正夫
この句も梅雨時の気候を前提にして作られている。沢山の家畜を擁する牧場にとって塩は文字通り動物たちの命を支えるものである。それだけに牧場の小屋には塩の叺が嵩高く積まれているのだが、その塩が梅雨湿りして圧倒されたと詠む。待たれるのは梅雨明け。
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