弟子と編む山報百号秋の雨川澄祐勝

「晴耕集・雨読集」7月号 感想  柚口満

塗りたての畦にほひたつ故郷かな池内けい吾

 故郷を持つ人には懐かしい「ふるさとの匂い」がある。特に農村に育った人は四季折々の匂いを思い出す。 水田や植田、青田や稲田、秋の収獲を祝った秋祭りの匂い等々である。
 この句の作者は久々に戻った在所の満目の田んぼで塗りたての畦の匂いを敏感に感じ取った。いつ帰ってもこれが故郷だ、という確信がもてる匂いであった。田舎を持たない都会育ちの人にはうらやましい一句かもしれない。

写経会の墨をする香や花の雨山田春生

 般若心経などを写経することが静かなブームを呼んでいると聞く。写経をする人によるとその効用は多岐に亘るらしいがひと口にいうと心と体の健康に繋がるらしい。その他には、集中力や脳の活性化、はたまた認知症の予防にも役立つというから昨今のストレス溢れる世の中での流行は頷ける所もあるのだろう。
 掲げた句は想像するにどこかの名刹の書院あたりで行われている写経会だろう。多くの参加者が声を発することもなく、一心に墨を磨りだした。静かに立ち上がる墨の香、外では満開の桜に雨が音なく降り続く。これだけの舞台環境が揃えば自ずと身も心も十分癒される。

囀の中乙女らの弓稽古井水貞子

 電車などに乗っていると時々弓袋を携えた女学生に遭遇することがある。その活き活きとし風情は溌剌としていて好感が持てる。
 さてこの句は弓道部の部活に専念する乙女たちの姿を描いている。戸外の森に面した弓道場であるから鳥たちの囀りがしきりで、その中で一列に並んで弓を射る乙女たちの姿が実に新鮮だ。青春真っ只中の女学生の雰囲気が「囀り」という季語を得て倍増した。

どこもみな真正面なり糸桜池野よしえ

 枝垂桜はエゾヒガン種から生まれた品種。大木となり大きなものでは二十メートルをゆうに超すものもある。大きな幹から細い枝を垂らして咲くことから「糸桜」とも呼ばれる。滝桜や天蓋桜の異名もある。
 この句の作者は大きな糸桜をじっくり鑑賞、大木の周りをそれこそ何回も回って中七の「どこもみな真正面なり」の措辞を得ることができた。それぐらい左右対称の完璧な枝垂桜だったのである。

草に足とらるる八十八夜寒沢ふみ江

   晩春の季語に八十八夜がある。立春から数えて八十八日目にあたる日で5月の2、3日頃にあたる。実は八十八夜という言葉は俳句と付き合う前、そう子供のころから自分の身近にあった。唱歌の「茶摘み」に夏も近づく八十八夜野にも山にも若葉が茂る、が一節にあったからである。
 八十八夜寒、八十八夜の別れ霜はいわば春から夏の最後の寒さをいうのであろう。この日を境に茶摘みや農作業が本格化するのだ。掲句はその気候の境目の夜の感覚を「草に足とらるる」という具現化した言葉で表し、行く春を惜しみ夏の到来を待つ境地。

春光になぐさめられてゐたるかな伊藤洋

 句の作者、伊藤洋さんは奥様の前川みどりさんを昨年11月に亡くされた。若くしての突然の逝去は洋さんの心に大きな悲しみとして残った。毎月の俳句を見るにつけそのことを思わざるを得ないのである。
 そんな彼の最近の心境を詠ったのがこの句、最愛の人が逝って半年、話し相手を失った自分を慰めてくれるのはこの穏やかな春の光だ、と述べる。しかし、夜ともなれば同時に出されている句「独り居に春の灯のまぶしかり」にあるようになかなか傷は癒えない。でも最近会った彼から「短期の合宿で運転免許をとり思い出多い山荘への足を確保した」と報告を受けた。前向きに前進しているのが嬉しかった。

桜鯛塩美しく焼かれをり深川知子

 桜が咲く頃に内海に産卵のために集まってくる真鯛を別名桜鯛と呼ぶ。特に雄の真鯛はこの時期腹部が婚姻色の赤味を帯びるので桜鯛と呼ばれるそうだ。
 阿波野青畝の句に「よこたへて金ほのめくや桜鯛」があるように桜鯛の句はほとんどがその生身の新鮮さや豪華さを詠んだものであるが、掲句は塩焼きの鯛を詠む。焼かれをり、だから焼かれている最中の鯛である。焼かれるにつれて塩の白さが浮き立ち、赤味を帯びた身が薄く桃色に染まり、背鰭の化粧塩も一段と栄え出した。ついつい美しく、と言わしめた絶品の鯛の塩焼きが完成だ

ぼんぼりの点りてよりの花疲鎌田とも子

 「座りたるまま帯とくや花疲れ」の鈴木真砂女の句には直接的な行為の中にその疲れを描く。また杉田久女の「花ごろもぬぐやまつはる紐いろいろ」には桜見物の疲れだけでなく華やかな花見の余韻が含まれる。
 そしてこの句は夕方になり雪洞に淡い灯が点いたのをみてどっと花疲れが出た、と詠む。昼間咲き満ちていた花が夕の帳に包まれ作者の胸の高まりも静まるとともに大きな疲労感が押し寄せたのだろう。

菜種梅雨窓を曇らす煮炊きかな小林黎子

 台所俳句の一端を伺わせる一句といえよう。菜の花が咲く3月から4月頃にかけて降り続く雨を菜種梅雨と呼ぶ。菜の花(春)、梅雨(夏)を併せた晩春の季語である。
 台所の外は菜種梅雨がしとしとと降り続き低い外気で窓が曇る。その中で台所を守る家庭の主婦は一家のために煮炊きに励む。ことことと煮る鍋のものに菜種梅雨の斡旋が静かな忬情を生み出した。

花冷えや朝出立の入れ茶粥坪井研治

 今年の春耕・雲の峰合同吟行会は4月の15、16日の両日に開催されたがその白眉は二日目の桜の吉野山吟行であった。その吟行で評判になった句のひとつがこの句であった。混雑を避けるために朝四時起床の連衆に出たのが入れ茶粥、つまり奈良の茶粥である。冷え込んだ桜冷えの吉野山、出発前の宿の熱い粥を口にして俳人憧れの山へと出発していった。

花筵ぐるりと囲む乳母車堀越純

 現代を象徴するようなお花見風景である。賑やかな花見集団と思いよく見てみると、花見の筵を占めていたのは若いママたちとその乳幼児であった。
 作者は花見の壮観さよりもその筵を見事に囲む数の乳母車に目をとられてしまった。また、ママたちのおしゃべりや幼児の泣き声や笑い声にも耳を奪われてしまった。これも最近の世相を反映した花見風景といえるのかもしれない。