「晴耕集・雨読集」 10月号 感想 柚口満
くすぐつてみたや昼寝の夫の足古市文子
作者の夫君、古市枯声さんが逝かれてもう5年半が過ぎた。皆川盤水先生の出身地、いわきの春耕の重鎮として我々、若いものも大変お世話になったものだ。
文子さんは今月号でも在りし日の旦那さんを偲んで掲句を発表された。いつも感心するのはその思慕の念の内容が新鮮であること。ともすれば今は亡き人を詠むとその内容は類想に陥りがちになり読む者も素通りしてしまうがそれがない。
掲句は新婚の頃か、あるいは晩年の一場面を掬いあげて作られた一句。昼寝の好きだった旦那さんの足をもう一度でいいからくすぐってみたいと吐露している。同時に出されている「海鞘裂けば夫よいわきの潮がとぶ」にもあの日の思い出が生き生きと活写されている。
驟雨去りみんみん俄なる大樹奈良英子
今年の夏は町なかで蟬の声をあまり聞かなかった印象が強いのであるが、どうであろうか。コロナ禍で外出が減ったせいがあるのかもしれない。
この句はみんみん蟬を詠んだ一句である。俄雨が去ったとたんにみんみん蟬が一斉に鳴き出したという。蟬が鳴くのには二つの意味があるらしい。一つは仲間同士を交信で呼び出すもの、二つ目はメスを惹きつけるというもの。
オスのミーンミーンミーンジジジーという大合唱でたちまちの大騒音となり果てた大樹、まさに盛夏の趣が横溢している。
人妻となりて着映えの藍浴衣萩原まさこ
もともとの浴衣は白地の木綿を藍で染め抜いたものが原則であったらしいが、最近の浴衣事情は大きく変わってきているようだ。華やかな色あいや大胆な柄が多くなり、花火大会や縁日、盆踊りなどで若い人達も気軽に着こなしているようだ。
さて、この句はこの間までは若さを謳歌するような浴衣をきていたお嬢さんが結婚をされて、しっとりとした藍の浴衣が着映えをしたと詠んでいる。藍の浴衣の魅力、効用であろう。橋本多佳子の句に「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣」があるが、こちらは人生を積んだ方が詠んだ貫禄の藍の浴衣である。
八月や混沌の世に聖火燃ゆ高野清風
毎年8月を迎えると人々はこの月を祈りの月とか鎮魂の月などと呼ぶ。お盆や終戦記念日、原爆忌などがあるからなのだが、今年はこれに加えて東京五輪が強行されコロナ禍の拡大までもが心配された。まさに混沌の世の中で8月が到来したわけだ。
幸いコロナの厄災は関係者の努力で大きな混乱もなくオリンピック、パラリンピックを乗り切ることができた。作者は燃え続ける聖火を見ながら特別な8月を乗り切った安堵感に浸ったのではなかろうか。
線香花火終は泪のかたちして泉琴子
今の子供たちにとって家庭で楽しむ花火といえば鼠花火や打ち上げ花火、ロケット花火など賑やかなものを好む風潮にあるようだが、掲句にある線香花火も捨てたものではない。線香花火を手にもって静かにパチパチと爆ぜる火花の風情は、過ぎ行く晩夏の風情をも感じさせる。終わりに近づく火の玉を「泪のかたち」とした表現が上手い。
水中花真夜中ひそと泡を出す岩永節子
水中花を擬人化して面白い一句となった。水中花は人間が暑さを凌ぐために作ったいわば清涼材。圧縮した造花などを水に入れて開かせ、その風情を楽しむという趣向である。
開いたら最後、水中花は昼も夜もなく開き続けるしかない。作者は真夜中に吐く泡の様子を溜息に見立てたのだろう。
逸れたる友と出くはす氷菓店請地仁
夏祭りだろうか、あるいは花火大会かもしれない。普段から何かと気の合う友達と誘い合って見物に出かけた様子がうかがわれる。
あまりの人出に逸れてしまった二人。探し回ったあげくにくたびれて入った氷菓店に、何とその相手がいるではないか。氷菓店の設定が効いている。
声重く闇を吐き出す牛蛙島貫和子
牛蛙の声の大きさはなかなかのものがある。昔住んでいた家には、数百メートルもはなれた水辺からボオーブオーという文字通り牛の鳴き声に似た声が聞こえてきたものだ。夜行性の蛙だけに「闇を吐き出す」との比喩が的確だ。
履く事のなき登山靴みがきけり山田えつ子
作者は若かりし頃は登山が趣味だったに違いない。その頃活躍した登山靴が今でも下駄箱に眠っていて折に触れては磨いているという。
磨くたびに回想するあの山、この山。そんな楽しい思いでのお宝はどなたにもあるはずだ。
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