「晴耕集・雨読集」3月号 感想 柚口満
鳥総松旧町名に鳩の街伊藤伊那男
鳩の街というのは戦後まもなく東京の向島と東向島の境界付近にあった特殊な飲食店街、いわゆる赤線地帯であり昭和20年代の後半には娼家が100軒以上あったとされる。作家の吉行淳之介や永井荷風が小説などに取り上げ、作家や芸能人が多く出入りしたという。
今の当地は鳩の街という地名は消えてしまい、商店街などにその名を留めるのみだ。
さてこの句の作者は。松過ぎの1日を浅草界隈に初詣をしてその帰りにこの街に来たのであろう。その下町の旧鳩の街の民家に鳥総松が挿してあるのを見つけた。その昔、紅灯の巷として賑わった家並と鳥総松という名残を惜しむ季語の取り合わせが絶妙な一句として仕上がった。
短日に入れ替へ終る置き薬山城やえ
置き薬といえば富山の薬売りによるものが有名であったが現在はどうなのであろうか。家庭の常備薬としてあらかじめ決まった薬を置いておき、後日巡回の販売者が補充分を集金するというシステムは便利なもので数は減少したものの通用しているそうだ。
作者のお住まいの佐渡にも巡回者がきて薬を入れ替えている図が掲句。「遠い所をご苦労様、お茶でも一杯どうぞ」「日のあるうちにあと数軒まわりますので」といった会話まで聞こえてくるような一句である。
つぶやきとならぬため息日向ぼこ児玉真知子
日向ぼこの真髄をある意味突き詰めた一句といっていいだろう。日向ぼことは有り体にいえば、日当たりのいい縁側、公園のベンチなどで暖をとり暇つぶしに仲間ととりとめもない話に楽しむ、といったところであるが、これでは類想の域をでない。
この句は一人称の俳句である。つぶやきとため息の違いを出すことによりその意味を深く読み取ってほしいとの願いがある。つぶやきは口から洩れる言葉。一方、溜息はこの場合失望や心配から出る息でなく、感心や快感から出る息と解すべきだ。掲句は日向ぼこの心地よさを独特の視点で詠み、類想から脱している。
来し方のうさぎ小鮒や初山河杉阪大和
童謡・唱歌「ふるさと」をベースに作られた一句である。特に故郷のある子供たちが長じてこの歌を口ずさむ時に感じる郷愁感は相通ずるものがあると思う。
兎追いし彼の川 小鮒釣りし彼の川 夢は今も巡りて 忘れ難き故郷(ふるさと)
一番の歌詞を記したが、作者、杉阪さんも我々と同年齢となり正月の故郷・飛驒の山や川を見るたびに過ぎし日々を回想して心を洗うのである。中七の「うさぎ小鮒」の省略がみごとである。二、三番の歌詞も添えておく。
如何におはす父母 恙なしや友垣 雨に風につけても思ひいづる故郷
志を果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷
喪の帯を冬の日向にたたみをり鈴木志美恵
一読してしみじみとした抒情が感じられる句である。ご親族、あるいは友人のご葬儀に出たその喪の帯を冬の日向の中で畳んでいる状態を一句にしたためた。
この句で大きな効果を上げているのが中七の「冬の日向に」である。外は厳冬で寒くてもたっぷりとした日の差す玻璃越しの座敷は嘘のように暖かい。その中で喪の帯を畳みながら在りし日の故人を振り返り走馬灯のように湧き出すいい思い出の数々に涙した。作者の心を癒した冬の日向の存在が秀逸だ。同時出句の「降る雪のまぶたに重し雪を掻く」も実感がこもる。
イヤリング揺らしマスクの女来る角野京子
この原稿を書いている4月9日、新コロナウィルスの感染者が国内で50万人を超えたと発表された。直近、2ヶ月で10万人増というペースに前途多難を憂えるばかりである。掲句はそんな世相の中で作られた一句である。マスクの女の人の表情は乏しく、揺れるイヤリングだけが目立ったという。これも一世紀に一度の厄災といわれるコロナ禍の一面である。
悪妻の集まりとなる女正月小池浩江
歳時記によって小正月の傍題に女正月を入れているものと、女正月を独立した季語にしているものがある。こと女正月に限定すれば1月15日に松の内に忙しかった女の人に休んでもらう、という意味合いであろう。
この句、悪妻の集まりと思い切った表現をしたことが面白い。なにも本当の悪妻ということでなく、いつも不満に思っている旦那さんのあら探しなどで盛り上がったということだろう。
病室の静寂一人の晦日蕎麦松村由紀子
晦日蕎麦というのは元来各月の晦日、つまり月末に食べるという風習がありその目的は健康長寿、厄を断ち切るといったものらしい。
しかし現代では暮れの大晦日の晩に蕎麦を食べるいわゆる年越蕎麦として定着し、歳時記でも冬の季語となっている。掲句は人気が絶えた病院で大晦日を送る人に晦日蕎麦を出した粋な計らいが嬉しく、一方の患者はこれにあやかり快癒への決意を新たにしたのだ。
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