「晴耕集・雨読集」5月号 感想          柚口満 

凍滝の凍ての極まる青さかな阿部月山子

 凍滝は厳しい寒気の中で流れ落ちる様そのままに凍りついた滝をいう。掲句の滝は相当大きなものであることが想像できる。寒気がいくら強くても大きな滝はひと晩で凍り付くものではない。日数をかけ少しずつ凍り完全結氷に辿りつくのである。「袋田の滝完全結氷」などとニュースになることもある。
 この句はその凍滝の荘厳さを「凍ての極まる青さかな」と詠んでそのすごさを活写した。そこには自然界の造化に対する畏怖の念も伺われる。

一握の米研ぐ夜の春の雪古市文子

 せつなき忬情を内包した一句である。独り暮らしの身では明日の朝のご飯は一握の米でいいと米を研いでいる図である。
 小生の妻も夫婦二人では一合の米で済むのよ、と吐露することがある。子が巣立ち家族が少なくなった現在においてはこういう生活に共感を覚える方々は多いのではなかろうか。夜の春の雪の季語も効いている一句である。

白魚をすくふすなはち眼を掬ふ杉阪大和

白魚の水の重さを買ひにけり倉林美保

 時代をさかのぼる江戸時代の隅田川では白魚がよくとれ篝火を焚いて四手網で収穫していたという。早春の趣深い風物であったのだ。しかし、最近では全国の収穫量が激減した。川の汚染が理由である。
 さて掲げた二句はよくある白魚の句の類想を避けるために突っ込んだ写生眼が伺えることである。
 大和さんの句、よく見られる眼の描写であるが、白魚漁で掬うのはすなわち眼を掬うのだと大胆に描写した点、あれだけ小さな物体に存在する眼の存在感があらためて強調された。
 美保さんの句も白魚の存在を儚い小動物として捉えている。買い求めた物体は全て水の重さのようでないかと感じたのが全てで、計算された大胆さがこれまた佳句に繋がったように感じたしだい。

凍蝶の日差しまさぐる脚使ひ岡村實

 冬の蝶の傍題に凍蝶があるがその季語の持つ雰囲気はかなり違うものである。すなわち凍蝶ともなると文字面からして厳寒期の蝶という事になる。
 自然の中で少しでも日当たりがよい南面の風の少ない場所を本能的に捜して息絶え絶えに生き残らんとする凍蝶、差し込んできた日差しをまさぐるように脚を使っていたという。その極細の脚の動きはまさに生きるための必死の闘いなのだ。

釣れぬ日の魚籠に転がす蕗の薹沖山志朴

 作者の志朴さん、毎月春耕誌の編集長として多岐にわたりお世話になっているが、趣味のひとつに釣りがあるのでしょうか、時々その釣りの一句を詠まれているのに気づくことがある。
 掲句もその一端が伺われる作品。この日は釣果が得られず愛用の魚籠は空っぽ、替りに付近の畦から蕗の薹を摘んで持ち帰ったいう。そこは釣りに精通した人、釣れない時も淡々としたもので今夜は蕗味噌を作って一献いうぐらいの余裕が感じられる一句である。

海へ向く館に残る踏絵かな大溝妙子

 禁制のキリシタンでないことの証拠としてキリストや聖母マリアの絵や銅板等を踏ませた踏絵、長崎を中心とした九州各地で陰暦の1月から3月に行われたため俳句では春の季語とされる。
 この句の眼目は隠れキリシタンの由緒ある館が「海」に向いていることに気づいたことだろう。踏絵に挑んだ人は海の彼方に何を見ていたのだろう。

初蝶の止まりどころの定まらず佐藤さき子

 俳句を始めてから初蝶をみるのが楽しみになった。何気なく散歩をしていてその年に始めてみる蝶は感激の瞬間でもある。虚子の「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」なのである。この句の蝶も生まれたてでほとんど地を這うようにさ迷い、止まるところが決まらない様子である。危なっかしいが初々しい可憐さも併せ待つ。

猟犬の耳尖らして山へ入る島村真子

 狩猟というものを見たこともなく。ましてや経験したこともないので心もとないが、猟期は狩猟法により11月から翌年の2月15日とされる所が多いらしい。
 この句は朝猟犬を伴い、猟場である山中に入るところを詠んだ一句。犬の表情、特に耳の尖りに注目している。神経を耳に集中した犬の緊張感が見えて来た。

土塊の一気にほぐる雨水かな林あきの

 二十四節季七十二侯という暦があるが俳句では特に二十四節季の季語が良く使われるようだ。春夏秋冬の立つ日とか穀雨、芒種など農耕に関するものなど生活に密着した季語に親しみを感じる。雨水は雪が雨に変わり土が潤い始める季節、庭いじりする作者の手元の土くれも面白いようにほぐれたと、詠む。