「晴耕集・雨読集」9月号 感想                柚口満   

通し鴨陣と言へども番のみ伊藤伊那男

 秋に渡来してきた鴨は春が深まるにつれて引き上げをはじめるがそのまま居残ったものを残る鴨、春の鴨と呼び春の季語とされる。
 そして、夏になっても帰らないのが掲句にある通し鴨、巣を営んで雛を育てる。作者は鴨の陣とは呼べないたった2羽の番の姿に心を奪われた。仲間と離れたその佇まいはどこか寂しげで哀れさを誘うものだったのか。故郷を捨てた番には鴨だけにしか分からない諸事情があったのだろう。

独り老い何時かビールの味おぼえ奈良英子

 作者の英子さんとは長い付き合いがある。7月下旬、高井美智子さんの句集出版祝賀会で4年振りで顔を合わせコロナ禍以来の再会を喜んだ。90歳を幾つか越されたと思うが元気な様子に安心した。
 俳句を始められたのは遅い方だったが探求心が強く平凡な写生に終わらない若さに注目している。
 掲句は一人住まいで老いてしまいいつの間にかビールの味を覚えてしまったと、述懐する。しかしそこには暗さはなく逆に今の人生を謳歌する余裕すら伺える。益々のご健吟を期待するものである。

供花となす隅田の花火てふ四葩岡村優子

 「隅田の花火」という名の紫陽花をご存じだろうか。ごく最近出た品種ではないらしいが私が耳にしたのは4、5年前である。
 夏の風物詩である隅田の花火大会からとった名前とする紫陽花の形状が人気を呼んでいるらしい。八重咲の額紫陽花の一種で花びらの拡がり方が花火を連想されるらしい。
 供花としたというのは、故人がこの花をこよなく好きだったからであろう。あるいは隅田川の花火大会そのものに縁が深かったのか。

子燕に賑はう村のなんでも屋中川晴美

 我々の子供時代の田舎の景としても、あるいは数少なくなった現在の在所の一場面とも思えるこの句、その懐かしさに共感を覚えた一句である。
 まず、句の舞台であるなんでも屋と燕の巣の設定が生きている。なんでも屋とは日用品を揃えたいわば雑貨屋。村の人にとって重宝な場所でもあり、情報交換の社交場も兼ねる。古い店の軒には毎年やってきて巣を作る軒があり巣の中で餌をねだる子燕が騒いでいる。過疎を言われる村だが、こういう句に出会うと何故かほっとするのは私だけではないだろう。

どくだみを伊吹山の風に干しにけり坂下千枝子

 どくだみは別名「十薬」ともよばれ乾燥させて利尿剤や緩下剤ほか民間で薬として重宝されたきた。一方、滋賀、岐阜県の境に位置する伊吹山は薬草の宝庫として知られ、古くから煎じたり蒸したり酒に漬けたりして今も根強いファンが多い。
 作者は伊吹山麓の薬草園の村を訪ね伊吹山頂からふき下ろす風に干されていたどくだみを発見、お店の方から薬草の穏やかな薬効を聞かされたのでは。伊吹山とどくだみの取り合わせの妙がいい。

蘭鋳の万の値のつく泳ぎかな角野京子

 金魚を詠んだ一句である。金魚には詳しくないが、種類も多いらしく中でも琉金と蘭鋳は高級金魚の代表で王様と言われるらしい。
 掲句はその品評会をみての作句であろう。値段のつく条件は色や模様、瘤のような肉瘤、太く逞しい体に加え、動き、すなわち泳ぎ方も注視されるという。
 万の値がつくというが百万の値が付く超弩級の蘭鋳も出るというから驚きだ。

網戸よりたつきの見ゆる裏通り小林黎子

 蠅や蚊などの害虫が入るのを防ぐために考案されたのが網戸、網戸の出現で蚊帳という物が消えてしまったという現象も出た。
 さてこの句は下町辺りの夕景あるいは夜景が想像できる。夕飯を囲む一家のたつき(生活)の様子があかあかと網戸超しに伺えたという。平和なひと時である。

大鰻桶の丸みに沿ひにけり酒井登美子

 稚魚の不漁で毎年話題になるのが鰻の高値である。土用の丑の日の客足が減るのも仕方ない。
 其のうなぎ屋の調理場でみた大鰻の姿を写生したのが掲句。中七、下五の桶の丸みに沿ひにけり、の発見の視線を称えたい。ちょっとした状態の把握、姿勢が俳句の上達の根源となるからだ。

揚げられて水の重さの海月かな守本みちこ

 寒天質の浮遊物である海月。色もいろいろ、種類も多いが日本ではミズクラゲが多い。その海月が海中から揚げられたところを詠んだのがこの句。
 その透明な物体はどこに眼がありどこに内臓が潜んで居るか全く分からず、感じたのは水の重さだけだったという見立ての良さを買った。