「晴耕集・雨読集」7月号 感想                柚口満   

パジャマ持ち子が二人くる春休み朝妻力

 作者の力さんとは30歳代から俳句を通じての知りあいであるから長い付き合いだ。作者の六月号の作品に「雲雀鳴く丘に妻子の墓碑を訪う」があるが、この間に様々な人生の試練に向き合われたことをしみじみと感じ入ったのである。
 最近の氏の句には子供や孫の俳句が数多く見られるのは嬉しい事だ。掲句は孫を詠んだ句であろう。お爺ちゃんの家にパジャマ持参でやって来たという。時は春、多忙の中を孫を連れだし桜の花見に行ったのかもしれない。作者の好々爺ぶりが目に浮かぶ。

母の忌を修しつつ春惜しみけり杉阪大和

 作者の母上は「春」に亡くなった。毎年巡りくる春はその母上を偲ぶ季節でもある。この句の季語が持つ意味は単なる春ではなく母との思い出を喚起させてくれるものなのである。
 それは亡くなった時期だけでなく、母との入学式でのこと、社会人となり親から離れた日の事、帰郷の孫を桜の下で抱いてくれたこと、等々すべてが春という季節に帰結して懐かしいのである。母の忌は作者にとって春を惜しむことに結びついている。

滝となる刹那の水の平らかに平賀寛子

 この句を読んで直ぐに思い浮かべるのは後藤夜半が詠んだ「滝の上に水現れて落ちにけり」である。客観写生を極めた句として殊に有名な一句である。
 もちろん、この句の作者にはこの一句が脳裏にあったことは確かであろう。しかし違うのは滝を見る視点が違うということ、その視線は滝を見上げるのでなく落ちる直前の水面が見える俯瞰したところにあった。
 その水面は平らで滑らかでこれから滝になるとは思えない不思議さがあったという。静から動に移る刹那の滝の一面を捉えた一句。

散る花に風のもつれの見えてをり実川恵子

 春の象徴である「桜」「花」は日本人に最も愛されてきた花である。短い期間に華やかに咲き、散ってゆく桜は万人の心を捉えて離さない。
 その満開の花が散る「落花」の傍題には「飛花」「桜吹雪」「花筏」などがありその散り際の潔さは日本人の美意識をくすぐるのである。
 この句はその桜の花びらと吹く風の状態を面白く表現した。花びらが濃く、薄く飛ぶ様を風のもつれと見立て写生したことが見事に功を奏している。

鞦韆や雲のゆきかひ見て独り市川春枝

 鞦韆、ぶらんこ、半仙戯は春の季語であるから楽しい句が多いかと思ったがそうでもない。
 掲句は一人でぶらんこを漕いでいる場面である。中七から下五にかけての表現からいかにも寂しい物言いである。それは「雲のゆきかひ」、という措辞からくるのだろう。思春期の少女の姿を連想した。

駐在の留守を預かる燕の巣上野直江

 大きな駅前とか町の中心部の交番にはお巡りさんが複数駐在しているが、ちょっと外れた駐在所にはお巡りさんが不在の時がある。街中の巡回の任務があるのだろう。そんな駐在所を守っているのが燕の巣、という見立てが何とも微笑ましい。もちろん親燕がいなくとも巣立ち前の子燕が騒がしく番をしている。

キャンパスに午後の気怠さ花は葉に牛窪肖

 大学の構内に漂う晩春から初夏にかけての独特の雰囲気を表した一句。
 桜の満開時に希望に満ちた気分で入学を果たした学生たちは勧誘で決めた部活にも慣れだした。緊張感がやや緩んだ空気を「午後の気怠さ」という絶妙な表現でキャンパスの気配を醸し出している。花は葉に、という季語はこの頃の季節の推移を表すのに的確かつ便利なものである。

春の鳥来てゐる樹木葬もよし高橋栄

 お盆や春秋のお彼岸を迎えるとお墓参りをするのであるが、その時に話題になるのが墓仕舞いや葬送の在り方である。掲句にある樹木葬の案内も新聞のチラシに入ってくるご時世である。この作者も自宅の庭に来る春の鳥をみながら、四季折々の鳥が来てくれるのなら樹木葬もいいな、と考えたのか。今後益々多様な葬送の形が拡がる気配である。

夏の風付箋だらけの本捲る守本みち子

 本棚の本から一冊の本を抜き出した作者。その風体からかなり読みこまれた、それも所々に付箋が沢山付いていたという。誰の愛読書?小説か、歴史ものか、はたまた句集なのかはわからない。しかし謎解きではないが付箋を追ってゆくうちに全容がわかってきた。夏の木陰の風の中での読書、私が勝手に想像したストーリーであるが如何なものか。