「耕人集」 十二月号 感想  沖山吉和

回転の尽きて木の実に戻りけり上野了子
 掲句の眼目は、回転している独楽と止まった木の実との対照の妙にある。
 目にもとまらぬ速さで回っている独楽、それはまるで命あるものが踊っているかのように華麗で繊細で流れるような美しさに溢れている。しかし、やがてそれが一旦止まってしまうと、どこにでも落ちているような平凡な一つの木の実にすぎないというのである。発想をちょっと変えるだけで、異次元の扉が開くことを教えてくれる佳句である。

ひと雨のあとの草の香涼新た小田絵津子
 「ひと雨」とあるので、俄雨だったのであろう。雨が止み、涼しくなった。しばらくすると日が差し、あたりから急に草の香りが立ちこめてきた。ああ、何日か前までは暑い暑いと言っていたのにすっかり秋の気配になったなあ、と作者は季節の移ろいを感じている。
 嗅覚、触覚の感覚を通じて自然の変化をありのままに受け取りながら、季節の変わり目の一抹の寂しさすらも感じさせる繊細な句である。

毎日が身辺整理夜半の秋完戸澄子
 作者がおいくつの方なのかは存じあげないが、ある程度の年齢になると現実的に対峙しなくてはならない死の問題。作者はまだ元気なうちに身辺をきちんと整理し、いざというときに周囲の人に迷惑を掛けないようにしておきたい、と考え日々実行している。
 官能性を感じさせる春の夜とは違い、秋の夜は知的な精神性を伴なう。作者は今日一日の自らの身辺整理を思いながら、しみじみと自らの半生をも振り返るのであるが、単なる感傷の句に終わってないところがよい。

不意に来て鶺鴒雨後の岩走る松村由紀子
 鶺鴒は石叩きとも呼ばれ、水辺の石の上などで尾を上下に振りながらせわしなく動き回る。白鶺鴒、黄鶺鴒、背黒鶺鴒などがいるが、掲句の鶺鴒は一番多く見られる白鶺鴒であろうか。
 「不意に来て」は、その白鶺鴒の特徴を的確にとらえた表現である。自然をよく観察している人でなければなしえない一句である。雨の後は、餌である昆虫なども動きが活発になるので、おのずと鶺鴒の動きもより活発になるのであろう。確かな写生に裏付けられた句である。

筆塚の河童百態露の秋藤沼真由美
 針供養で有名な鎌倉の荏柄天神社での作であろう。ここの本殿の左手には、河童の漫画で有名な清水崑が絵筆を供養するために建てた「かっぱ筆塚」がある。その奥には、清水崑の遺志を受け継いだ多くの漫画家の絵筆塚があり、百数十枚の漫画のレリーフが飾ってある。
 レリーフの河童たちは様々な姿態をしている。それはそれぞれの漫画家たちの個性や生き方を象徴しているかのようで面白い。「露の秋」は露の傍題として載っている季語。掲句では、はかなさの象徴として対比的に用いられ効果を上げている。

新米を研ぐ音濁りなかりけり梨本道夫 
   別に新米であるからといって、研ぎ音が極端に違うわけではない。内面の受け取り方の違いなのである。その違いを生むのは、収穫の喜びであったり、神への感謝の気持ちであったり、新米への味の期待であったりといろいろであろう。
 作者は、米所の山形の方である。新米に対する期待や感謝の気持ちは、われわれ都市部に住むものとは比べものにならないくらい強い。それが繊細な感覚となって現れた心象句なのである。

ラジオより人生相談秋刀魚焼く船越嘉代子
 人が生きていくうえで、悩みや苦しみ、トラブルはつきものである。時には、自分だけの力ではどうにも解決できない深刻な問題が発生し、専門的な法の知識や経験に基づくアドバイスが、必要になったりもする。
 「秋刀魚焼く」は人間の生きるための日常の営みを象徴している。作者は、ラジオから流れる人生相談を聞きながら、もしこれがわが身に起こったことであったなら、と同情的になる。その一方で、家族がお腹をすかせて帰ってくるから、早く夕食を準備しなくちゃ、と現実の生活に追われる自分に気づく。観念ではなく、具象を通じて叙情を表現しているのがよい。

亡き人の姿を求む風の盆澤井京
 筆者も一年ほど前に実弟をなくした。人込みの中で、時折、今すれ違ったのは弟ではないかと振り返ることがある。他界したという現実がなかなか受け入れられないのである。
 作者は八尾の風の盆を見学している。おわら節は哀切感の溢れる旋律である。無言の大勢の踊り手たちの中にひょっとしたら亡き人が紛れているのではないか、と思わず踊傘を覗き込むように探してしまう作者。哀調の滲む叙情句である。

絵手紙の色の滲みや虫の声野口栄子
   一句の眼目は、「色の滲み」にある。色が滲むことによって、絵手紙の色合いもさらに趣のあるものになったのである。また、闇に鳴く虫もいろいろな鳴き声が混じることにより、情趣のあるものになる。
 作者はいただいた絵手紙を灯りの下で静かに眺めている。表では盛んに虫たちが鳴き、いちだんと秋の深まりを感じさせる。視覚と聴覚とを融合させ、しみじみとした奥深い世界を作り出している。

詰め込みし二百十日のリュックかな井関智造
 俳諧味に溢れた句である。おそらく山登りにでも行くためのリュックサックなのであろう。あれもこれもと思って詰めている作者。そのうちに、まるで災害に備える荷物ででもあるかのようにずしりと重くなってしまった、と自嘲ぎみに詠っている。
 季語の二百十日は、日付ではおよそ9月1日ごろで、台風の多い日もしくは風の強い日といわれている。「詰め込みし」が季語を生かしている。

病葉や地図より消えし村いくつ川土居林鳥
 近年「限界集落」という言葉が使われるようになった。これは六五歳以上の人口が過半で、かつ産業の担い手の確保、社会的な共同生活の維持が困難となった集落を指す言葉である。これがさらに進むと「消滅集落」となる。「地図より消えし村」はまさにこの「消滅集落」なのである。
 作者は山形県にお住まいの方である。「いくつ」はおそらく周辺の地域で起きている現実なのであろう。これは単なる一個人としての問題ではなく、日本の社会が抱える構造的な問題なのである。表現は穏やかであっても、深刻な社会問題への提言なのである。