「耕人集」 3月号 感想  沖山吉和

葉牡丹の渦に朝の日集まりぬ末重敏子

 葉牡丹は、外側の緑の葉と鮮やかな彩りの中心部との対照がなんとも美しい。冬枯れの朝の景色の中でその彩りは一層存在感を増す。その様子を、渦に朝の日が集まったと表現している。省略の効いた印象的なこの表現が掲句の妙味である。
 また、「朝日」と言わずに「朝の日」と表現しているところにも、過剰になりがちな表現を抑制する効果が感じられる。

なるやうになりて安らぐ枯蓮田綱島きよし

 掲句の眼目は、中七にある「安らぐ」である。この語が一句をまとめるとともに、類想的になりがちな句に独自性を持たせている。
 夏には大輪の美しい花をたくさん咲かせた蓮田も、秋になるとことごとく色あせ、一面の敗蓮田となる。さらにそれは激戦の跡の地のように葉が枯れ、茎が折れ尽くし、無残なまでの枯蓮田の光景へと変わってゆく。もうこれ以上痛々しい姿にはならないというほど枯れ尽くした枯蓮田の景。あとは春の芽吹きを迎えるだけというその光景に、作者はほっとするものを感じているのである。

飽食の時代に生きて七日粥清水延世

 俳句を作る世代の多くは、戦中や戦後の食糧難の時代を生き抜いてきた。子供のころ、バナナを食べたという友達の話を聞いては、羨ましく思ったことがある。今日、店頭には安価なバナナが山と積まれている。クリームのたっぷり載ったケーキ、霜降りの牛肉等々美味しいものが巷には溢れている。そのような中で多くの人はいかにダイエットするかで苦しんでいる。
 作者は、七草と塩とわずかなお米だけの七草がゆを食べながら、しみじみと感慨に耽っている。なんと時代の変わったことよと、日々贅沢をしているわが身を振り返る。それにしても質素ながらなんとも美味しい七日粥…。自問自答する複雑な心中がよく表現されている。

東京が昔にもどる三ケ日鈴木知子

 「昔にもどる」とはどんなことなのであろうか。車の騒音が少なくなること、ご近所が交わす新年の挨拶に新鮮さを覚えること、時間に追われない長閑さ、商店街が閉まっていることなどであろうか。
 この3、40年、近代化、国際化、情報化、合理化が急激に進み、町の様相や人々の生活がすっかり変わってしまった。便利ではあるが、その半面、人間関係の希薄化が進み、人々の人情味も薄れてしまった。迎えた正月、作者は昔の生活にふと懐かしさすら感じているのである。

獅子舞に抱へし稚児を差し出せり小池浩江

 獅子舞の類句は少なくないが、ユーモアを交えた下五の「差し出せり」で作者は句の独自性を発揮している。恐ろしい目玉、赤い顔、歯並びのよい大きな口・・・。子供にとってはこれほど恐ろしいものはないであろ。大声で泣き叫ぶ子供の姿が目に見えるようである。
 しかし、昔から獅子は、とりわけ子供に取り憑いた邪気を食べてくれると信じられてきた。そのご利益にあずかり、無事に成長していってほしいという切なる願いが「差し出せり」なのである。いつの時代でも親の子を思う気持ちは変わらない。

虎落笛まだがんばれと聞こえたり赤荻千恵子

 今年の冬は風の強い日が多かった。真夜中、大きな唸り声をあげて迫ってくる虎落笛。その音を恐ろしいと感じる人も少なくないであろう。しかし、掲句の作者はその迫りくる音を、自らへの励ましと聞いたのである。
 作者は、現在教育界の第一線で女性管理職として活躍されている方である。今日、教育の世界も様々な課題を抱え、関係者はその対応に苦慮している。掲句の作者も、ともすると挫けそうになりながら、日々必死に奮闘している。そんな作者には、虎落笛の凄まじい音すらも励ましに聞こえたのである。気持ちが吹っ切れた一瞬をうまく表現している。

かるた取り泣く子に負けて終りけり古屋美智子

 一茶の句に「だいこ引きだいこで道を教へけり」という句がある。また、古川柳に「ひん抜いただいこで道を教へられ」という句もある。一茶の句の格調に対して川柳の方は粗野な言葉で目にした風景の面白さを表現している。
 掲句は、川柳の境目で軽妙な表現を生かしつつ、一方で品格を保ち、すんでのところで句として成功している。それにしてもよほど負けず嫌いの子供なのであろう。案外このような子供が、社会に出てから辛抱強く物事に取り組み成功するのかもしれない。

からまつの流るる落葉夕日なか金子正治

 「流るる」が、掲句の妙味である。また、「からまつ」というひらがな表記にも作者のこまやかな工夫が感じられる。
 初冬のからまつ林での夕方の光景。ちりちりと散り継ぐからまつの細かい葉。それが沈む日に映え、きらきらと輝いて美しい。その光景はまるで光が降っているかのような柔らかな印象すら与える。明るい西洋的な、そして絵画的な高原での美しい景の句である。

出荷牛塩なめに立つ十二月船田としこ

 牛は塩分が不足すると乳の出が悪くなったり、食欲が低下して痩せてしまったりする。そのために、酪農家はミネラルを強化した岩塩などを置き、牛に自由に舐めさせるようにしている。肉牛は、三百キロ近くになると出荷時期を迎えるが、掲句の牛もその時期を迎えたのであろう。
 牛は、当然のことながら、やがて出荷されることなど知ろうはずもない。しかし、世話した人や見ている人にはいささかの情が移って複雑な心境になる。今年も間もなく終るいう慌ただしさの中で、取引の値段のことなども話題になったりするであろう。人のたずきと牛への愛情という微妙な心理が、牛の立ち上がる動作の中に描かれている。都会ではなかなか作れない句である。

炉話の身振り手振りや大藁屋澤田穣

 炉話、大藁屋から想像するに、広い古民家等での宿泊の際の嘱目の句であろうか。囲炉裏の火を囲んでいる客が、語り部の話に次第に引き込まれてゆく様子が思い描かれる。語り部が話しているのは民話であろうか、村の歴史であろうか。とにかく興味深い。
 中七の「身振り手振りや」が掲句の臨場感を醸し出す上で効果的。囲炉裏の火に頬を染めながら、遠い昔の異空間に置かれたような錯覚すら一瞬起こす作者である。

初夢の思ひ出せなき鳥の声山本邦夫

 夢の中の色彩が話題になることはあっても、鳥の鳴き声が話題になることはほとんどない。「鳥の声」としたところが掲句の新鮮さであり手柄である。
 野鳥の愛らしい姿や鳴き声に心が癒されるものである。初夢に、鳥が鳴く場面が出てくるくらいであるから、よほど鳥が好きな方なのであろう。悪い初夢ではなさそうである。きっと作者は今年一年の善き前兆として確認するかのように、夢の鳴き声を一生懸命に思い起こしていたのであろう。