「耕人集」 2月号 感想  沖山志朴

凍滝にみほとけの相ありにけり山本恵子

 この冬の寒さはことのほか厳しく、日本海側の積雪量は数十年ぶりとのこと。人間の力がいかに微力であるかを改めて思い知らされた冬でもあった。
 掲句はいずこの滝かは分からないが、作者は真冬の凍結した滝の前に立っている。しみじみと見ているとその凍り付いた滝の様相が、なんとなく仏の立姿のようにも見えてきて、神々しさ感じるという。人の力をはるかに超えた自然の威力に対する畏敬の念が、作者の深層心理にあって、そのように思わせたのかもしれない。作者の見立てが光る句である。 

渡り来し白鳥人に寄り来る芦沢修二

 句意は、長い旅路を渡ってきた白鳥たちが、岸辺に立つ人たちに親しげに寄ってきた、と単純である。
 しかし、作者の意図はもっと深いところにある。途中、激しい嵐で命を落とした白鳥もいよう、餌が採れず、何日もひもじい思いをしたこともあろう。真冬、人間の撒いてくれた餌で生き延び、人間に全幅の信頼を置いているのかもしれない…。等々思いつつ、慈愛の目をもって眺めている光景なのである。

極月の舞台を締むる夢幻能松井春雄

 夢幻能は、神・霊・精などの超現実的存在の主人公であるシテが、名所旧跡を訪れる旅人である僧侶などのワキの前に出現し、土地にまつわる伝説や身の上を語る形式の能。現在物に対応する。
 感動を胸に作者もこの一年を振り返る。目まぐるしく変わる世の中、また我が身にも様々なことがあった。中には幻ではなかったかと、思われる出来事もある。何はともあれ、いよいよ今年も終わろうとしている。  

渓川の綺羅走り来る今朝の冬山田えつ子

 「渓川の綺羅」をどう解釈するか。筆者は「綺羅」を流れ来る渓水の様相ではなく、その水に乗って流れてくる色とりどりの木々の葉、と解釈した。澄んだ水の色、朱色、黄色、赤などの色合いを「綺羅」と表現したのであろう。
 言葉の省略も効いている。色彩感覚も豊かであり、かつ一句に読者へと迫ってくる勢いが感じられる。読者の想像力を誘発するような仕掛けが秘められた句であると鑑賞した。

あらはなる噂の主や池普請汲田酔竜

 池普請は、冬の季語。渇水期に行われ、底の泥を掘って深くし、春からの田畑の灌漑に備えた。農家の生活がかかっているだけに、各戸から一人ずつ必ず参加するなど、集落の厳しい掟もあった。最近は、テレビでも、在来種を守ったり、水辺の環境を整備したりするために池の大掃除をする様子が報道される。時には巨大な外来魚や危険生物が混じっていたりして、視聴者の関心も高いようである。
 掲句も、「噂の主」から推測するに、田畑の灌漑に備えるというよりも、都会の池の環境整備のための池普請なのかもしれない。かねがね巨大魚の姿を多くの人が目撃し、噂になっていたのであろう。あらわになったその姿に起こる歓声が聞こえてくるようである。

龍馬の血跳ねし掛軸初時雨酒井登美子

 坂本龍馬は慶応三年、京都河原町の醤油商近江屋の二階にいるところを襲われて殺された。その際、部屋に飾られていた江戸時代の梅椿画に、飛び散った血の数滴が付着した。この掛軸は、現在京都国立博物館に所蔵されているが、血痕はそのまま残っている。
 日本を大きく変えた幕末の志士の最期を生々しく物語る貴重な資料を眼前にして、言いえぬ思いが込み上げてきた作者。その暗然たる心中に時雨の音が染みる。

顔入れて樽洗ひをり冬用意太田直樹

 長い雪国の冬を越すために、大きな樽で大量の漬物をし、保存しておくのであろう。上五の「顔入れて」の措辞により、大きな樽であることも分かる上、念入りに洗っている様子も具体的に伝わってくる。おそらく、上半身を樽の中に折り曲げるようにして入れ、底を隅々まで丹念に洗っているのであろう。
 言葉を大胆に省いているが、厳しい冬を越すための心構えや、先人たちから脈々として受け継がれてきた生活の知恵までもが、掲句から見事に伝わってくる。

枯蓮田紺碧の空あるばかり清水延世

 蓮の葉が青々しているうちは気づかなかったが、一面枯れつくし、荒涼たる世界となった今、見上げる空のなんと碧く澄んでいることよ、という感覚的表現の句である。
 暖かい季節よりも、冬の風の強い日の空は澄む。それに枯れ果てた茶色の無残な世界とを対照的に配することにより、その碧を一層際立たせている。いわば、対照の効果が発揮されている句である。