「耕人集」 三月号 感想   沖山吉和


掬ひたる度に場の沸く闇汁会
日浦景子

闇汁会は今ではほとんど行われなく なった。暗い中で各人が持ち寄った一品ずつの材料を大鍋に入れ、ころあいを見計らって暗中模索しながら掬い上げて食べるという飲食の遊び子規もしばしば楽しんだという。筆者も子供のころ一度だけ経験がある。
掬い上げた人が、予想外のその汁の具を声にする。するとそれを聞いた人たちが一斉に笑い、騒ぎだす。童心に返って、冬の寒い夜を身も心も楽しく、そして暖かく過ごした場の雰囲気が伝わってくる。

シュレッダーの音まだ続く年の暮辰巳陽子

「まだ続く」から作者の職場での光景であろうと推測される。
「年の暮」の季語が働いている。作者は、机で仕事をされているのであろう。少し離れた場所にシュレッダーがある。そこへ入れ替わり立ち替わり人がやってきては、不要となった書類や処分すべき書類を掛ける。その音を聞きながら、1年でこんなにもたくさん不要となった書類があるのだ、それにしてもこの1年もいろいろなことがあったなと、感慨を深くしている。

手返しに湯気の昂る年の餅小島利子

「湯気の昂る」の中七の措辞に作者の並々ならぬ感性の豊かさを感じる。手返しするたびに餅の湯気が一段と高く上がるという光景である。
作者は、米作りにも携わっている方であるので、きっと自らが耕作した糯米を用いて搗いているのであろう。米の出来具合に満足する気持ち、搗いている人との阿吽の呼吸、周りで手伝いをしている人たちの忙しなく動きまわる様子までが想像される。活気に満ちた1年の締めくくりの句である。

昃ればいよよさみしき野水仙桑島三枝子

ただでさえ色といい、形といい寂しい印象を与える花である野水仙。それが、夕方になり、日が翳ると一段と寂しさを増し、風に揺れているというのである。水仙の花の持つ雰囲気をよく捉えている。
ためしに水仙の花言葉を調べてみると「うぬぼれ」とある。自負ばかり強くて、周りの人には理解されない、そんな花言葉を持つ水仙を皮肉った句と理解することもできなくはない。しかし、冬の夕暮れの中に咲く水仙の寂しげな様子を詠った句と捉えるのが自然であるし、一句も生きる。

切岸のいち列だけの霜柱峯尾雅文

一句の妙味は中七の「いち列だけの」にある。作者の着眼がよい。まさにこれが俳人の目なのである。
幾層も地層が重なっている。冬の寒い朝、よく見るとそのうちのたった一段だけに霜柱が立ち、朝日に白く輝いている。水分を含みやすい地層なのであろう。多くの人は見逃してしまいがちな光景であるが、作者はそれを見逃さなかった。鋭い感性のなし得た一句である。

年はじめ象の花子の一歩二歩芹沢修二

花子は、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で飼育されている雌のアジア象である。第二次世界大戦後に初めて日本にやって来た象で、多くの子供たちに夢を与え続けてきた。現在70歳近い。日本で飼育された中で最も長寿であり飼育期間も長い象である。
高齢のため、思うようには歩けない。年の初め一歩二歩と確かな歩みを続ける花子の長寿を祝ぐとともに、その歩みから作者は勇気をもらっているのである。

鬼柚子の落ちて里山暮れにけり青木晴子

「柚子落ちて」では句にならないが、これが「鬼柚子の落ちて」だと光景は一変し立派な句として成立する。特異な形といい、大きさといい、鬼柚子には存在感がある。数も柚子のようにたくさんは生らない。その鬼柚子が、落ちるとあたりの状況が一変し、急に日が暮れたようになったというのである。
俳句は、最短詩形であるだけに一語一語の選択が重要であること、実に繊細な文学であるということを感じさせる。
千手観音一腕ごとの煤払平照子

千手と一腕とを対比的に配することによって効果を生んでいる。計算し尽くしてのことであろうが見事である。
千手観音には千本の手があり、それぞれの掌には目が付いているという。これは多くの人に救済の手を差し伸べ、教え導く知を表すためとされている。したがって、この1腕も単なる千本のうちの一本の腕ではなく、一人一人をよく見て、知を授けて救い出すための尊い一腕なのである。そう考えると煤払も一腕一腕への祈りの籠もったものとなる。

雑炊をもつて終りぬ鍋奉行斉藤房子

ユーモアのあふれる句である。そもそも揶揄が込められている鍋奉行という語、それをあえて使用したところが妙味である。
最初は、礼儀正しい仲間であっても、杯を重ね、酔いが回ってくると注文が相次いだり、声も大きくなって場の収拾もつかなくなってきたりもする。中には日ごろの不満をここぞとばかりにぶちまける人もいる。最後の雑炊を迎えるころになるとやっと一段落、鍋奉行もお役御免となる。やれやれといったところであろう。

母老いて父母を恋ひをり寒暮光佐藤友技子

人間、いくつになっても親は恋しいものである。多くの動物では、子別れの儀式があって、そこで親子のつながりも断ち切られる。しかし、人間の場合、精神的な面での親子のつながりはいつまでも断ち切られずに続く。
掲句の母親はかなり高齢になり、気持ちの上でも弱くなっているのかもしれない。赤ちゃんが夕暮れ人恋しくなってよく泣くように、しきりに父母が恋しくなり、心の中で泣いているのかもしれない。「母老いて」が効いている。

水底に万華鏡めく散紅葉関谷総子

色彩感覚豊かな視覚の句である。中七の「万華鏡めく」の措辞により、水が澄んでいること、散って沈んでいる紅葉は赤だけでなく青、黄色など彩りが豊かであること、枯れて縮んでいる状態ではないことなどがわかる。簡潔な中の語の響きが心地よい。
俳句は具象的に表現することが大切である。この句は、俳句の語の持つ象徴性をよく理解し、比喩を巧みに用いながらそのことをよく教えてくれている。

寒林のなかを人影動きけり若園貞子

繊細な感性の句である。葉の散り尽くした寒々とした冬の林。人などいないと思っていたのに、人の影が動くのが見えた。作者の意識は、何をしているのだろうか、どんな人なのだろうかとしだいにそちらへ吸い寄せられてゆく。
中七は、「なかに」ではなく「なかを」となっていて、「に」に比べその対象領域は広くなる。人影は、寒林の外へ抜けて行ったと受け取るとことも可能になる。