古典に学ぶ㊺ 『伊勢物語』のおもしろさを読む(33)
    ─ 紫式部が愛好した『伊勢物語』と歌の力 ─               実川恵子

 『源氏物語』が『伊勢物語』の設定を取り入れている例は更に見受けられる。それは、前述したように、元服してまもなく結婚した昔男が、西の京に住む人妻と関係をもったという第二話は、若い光源氏が前東宮の未亡人である六条の御息所と交際するようになったという設定にヒントを与えているようにも思う。
 このように、紫式部は物語の枠組み作りに際し『伊勢物語』をさまざまな形で積極的に利用していることがわかる。『伊勢物語』が描いた昔男の青春の行跡は、光源氏の青春の日々を描くための、この上ない参考資料となっている。まさに、『伊勢物語』の存在なくして『源氏物語』は描かれ得なかったといってよい。そして、紫式部が先行作品として愛好した『伊勢物語』を、
年後の我々も同じように楽しんで読めるということは、なんと幸せなことであろうか。
 さて、百二十五章段からなる物語の一割強の冒頭の十六章段と、その関連章段のいくつかを読んだだけだが、そこには在原業平をモデルとした一貴公子が辿った愛と彷徨の物語が鮮烈に描き出されていることを実感し、青春の文学としての『伊勢物語』の魅力とおもしろさを感じていただけたらうれしく思う。
 世界の古典と言われる強烈なパワーを持つ『源氏物語』だけでなく、日本人が長きにわたって愛好し、大切に守ってきた古典文学は他にもたくさんの作品が残されている。なかでも『伊勢物語』は、すでに紫式部が古典として受容し、強い影響を受けた作品である。
 出版文化が盛んになった江戸時代には、『伊勢物語』は代表的な古典作品として驚くほど多種多様な版本が作られ、世に広く流布した。当時はおそらく、『伊勢物語』は『源氏物語』よりもはるかに身近な古典文学として、知識人はもとより庶民にまで親しまれていたのであろう。二十一世紀に生きる私たちも、『源氏物語』ばかりもてはやすのではなく、『伊勢物語』にももっと親しむべきだと思う。そんな願いで書いてきた。
 章段の配列にしたがって読み、ひと続きのストーリー性が認められるのは、第十六段までで、以後は断片的な話の集成と言わざるを得ないように見える。また、『伊勢物語』の成立には何段階にもわたる増補の過程があり、章段の配列・構成もかなり複雑な様相を呈している。作品の全体を読み解くには、成立過程の問題をも視野に入れた読みが必要になる。また機会があればそのような試みを提示してみたい。ぜひ『伊勢物語』の全体をお読みになって、あれこれと考えてみていただきたいとも思う。
 最後に、『伊勢物語』が発している、主題的な問いかけとは何であろうか。それには多くの要素が考えられようが、おそらくその中でも最も重要なものの一つに、「人が歌を詠み上げること」に対する、真摯で根本的な意味の追究というものがあると思われる。人はなぜ歌を詠むのか、あるいは、なぜ人は歌という表現手段を必要としたのか。それはまた、歌という非日常的な言語による人と人との交換の方法に対する根源的な考察なのであり、同時に、そうしたコミュニケーションの可能性に賭ける人々への共感と関心に貫かれた営為なのである。
 したがって、『伊勢物語』の各章段には、必ず歌が含まれることとなる。さらにはその歌が、どのような人物によって、どのような状況において詠まれたのかを、語り手は抑制された表現で語り出すことになる。その中で、第九段の東下りの隅田川の場面があげられる。
 水の上を遊ぶ見慣れない鳥は、男たちの心を揺り動かす「都」を名に持つ鳥であった。男は、歌によって問いかける。「わが思ふひとはありやなしや」と。大切な人の安否を気遣う思いは、自らの現実的な行き先とはうらはらに、一途に都の方角へと向かい、男たちの心を引き裂くのである。