子規の四季(78)   子規と絵画         池内けい吾

〇 十年程前に僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者であつた。其頃為山君と邦画洋画優劣論 をやつたが僕はなかなか負けた積りでは無かつた。最後に為山君が日本画の丸い波は海の波で無いといふ事を説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いて其差異を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけに此実地論を聞いて半ば驚き半ば感心 した。殊に日本画の横顔には正面から見たやうな目が画いてあるのだといはれて非常に驚いた。けれども形似は絵の巧拙に拘らぬといふ論でもつてその驚きを打ち消してしまふた。

 上は明治三十三年(1900)三月発行の「ホトトギス」第三巻第五号に掲載された子規の随筆「画」の冒頭である。文中の為山とは画家・下村為山(しもむらいざん)。子規は親しかった二人の画家の影響で、俳句における写生に開眼したといわれている。その一人が中村不折であり、もう一人が下村為山であった。
(不折については、本稿(21) 「不折を送る」で紹介した)
 下村為山は慶応元年(1865)松山藩士の家に生まれた。子規より二歳年長である。幼少時から画家を志し、上京して本多錦吉郎と小山正太郎に洋画を学んだ。明治二十年に入門した小山の画塾「不同舎」では中村不折と同期で、のちに二人は小山門下の双璧と称されることになる。小山は学校教育の図画でも毛筆画(日本画)よりも鉛筆画(洋画)を採用すべしと一貫して主張した人で、スケッチよりもでっざんを重視する絵画論の持主であった。
 為山が子規に初めて会ったのは、明治二十四年前後。本郷にあった常盤会寄宿舎に、監督に就任した従兄の内藤鳴雪を訪ね、寄宿生の子規を紹介されたのである。以来、二人は親しく絵画論を戦わす仲となる。幼少時から絵が好きだった子規が為山から絵について教わるいっぽう、為山も子規に感化されて俳句に熱中する。俳人としての為山は、下村牛伴の俳号で作品を残した。さらに洋画の筆をとるかたわら、俳画の研究に没頭するようになるのである。
 随筆「画」で、子規は不折や為山との絵画論争を繰り返すうちに、ふと俳句と比較してみてから大いに悟る所があったという。俳句に富士山を入れると俗な句になりやすい。また松の句には俗なのが多く、かえって冬木の句に雅なのが多い。達磨などは俳句に入れると厭味になる。そうしたことを絵の上に推し及ぼし、俳句を知らぬ人が富士の句を見ると非常に嬉しがるのと、自分たちが富士の絵を見ると何となく喜ぶのは同根であることに気づき、眼が開いたような心地がしたという。

 けれどもまだ日本画崇拝は変らないので、日本画をけなして西洋画をほめられると何だか癪に障つてならぬ。そこで日本と西洋との比較を止めて、日本画中の比較評論、西洋画中の比較 評論といふやうに別々に話してもらふた。さうすると一日一日と何やら分つて行くやうな気がして、十ケ月程の後には少したしかになつたかと思ふた。其時虚心平気に考へて見ると、始め て日本画の短所と西洋画の長所とを知る事が出来た。とうとう為山君や不折君に降参した。 其後は西洋画を排斥する人に逢ふと癇癪に障るので大いに議論を始める。終には昔為山君から 教へられた通り、日本画の横顔と西洋画の横顔とを画いて「これ見給へ、日本画の横顔にはこんな目が画いてある、実際 君、こんな目があるものぢや無い」などゝ大得意にしやべつて居る。其気障加減には自分ながら驚く。
 
 さらに随筆「画」には、為山の子供時代の面白い逸話も紹介されている。
  
○ 僕の国に坊主町といふ淋しい町があつてそこに浅井先生といふ漢学の先生があつた。其先生の処へ本読みに行く一人の子供の十余りなるがあつたが、いつでも其家を出がけにそこの中庭へ庭一ぱいの大きな裸男を画いて置くのが常であつた。それとも知らず其内の人が外へ出やうとすると中庭に大男が大物を抱いて居る画があるので度々驚かされる。今日も亦例の画がかいてあつたと其内の人が笑ひながら話すのを僕が聞いたのも度々であつた。其時の幼い滑稽絵師が今の為山君である。

 子規は子供のころから手先が不器用で、絵は好きでありながら画くことができなかった。それが為山や不折と交わるようになってから彩色の妙味を悟り、不折が持ってきてくれた絵具で机の上に活けてあった秋海棠を写生してみた。その絵を不折にほめられ、絵における写生の大切さを悟ったという。随筆「画」の最後の一節は、次のようにたった一行で締め括られている。

○ 僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまふ。

 子規没後、為山は東京を離れて地方回りの肖像画家となった。その間、洋画の筆をとるかたわら俳画の研究に励んだ。俳譜味あふれる水墨画を創始して東京の画壇に復帰したのは、大正四年(1915)のこと。棕櫚、柿、鶏頭、雀などの新鮮な水墨画が注目された。はじめは俳画家と呼ばれることを極端に嫌悪していたが、のちに次のように述べて俳画家への転身を宣言した。
〈俳句は日本特有の文芸であり、俳画もまた日本芸術史の光であって、誇るに足る舞台である〉
 子規堂で知られる松山市の正宗寺にある子規埋髪塔は為山のデザインしたもので、愛媛県指定史跡となっている。
 終りに子規編『新俳句』から、下村為山(牛伴)の句を若干紹介しておきたい。

紅梅に立ちよれば神の在します   牛 伴
草の戸に詩を書く春の別れかな
捨舟に物喰ふ春の鴉かな
古川や出水のあとの花茨
庭前七歩石をへだてて竹を植う
痩牛のひかれ行くなり雲の峰
送火や親子二人の影法師
軒下や鍋にこぼるる萩の花
小雀の小蛤とはなりにけり
焼跡に一軒残る寒さかな