「晴耕集・雨読集」 2月号 感想          柚口  

柚子湯してやや若返りたる心地池内けい吾

 昔はそうでもなかったが、年をとってきてからは自分の名前のせいでもないが、柚子の香や掲句にある柚子湯に親しみを抱くようになった。
 冬至の日に香り豊かな柚子の実を何個か浴槽に浮かべ入浴する習慣は小さい頃から続いてきた。五右衛門風呂から現在の明るい風呂までずっと。
 作者は柚子湯してちょっと若返った気持ちになったと吐露する。湯の面に浮かぶ柚子を鼻先に寄せれば新鮮な香りが体をよみがえらせる。湯上りの若返った気持ちを持てただけで「やや」より効果があったとみる。一陽来復、風邪もひかずに長生きしましょう。

散り際といふもの見せず冬桜伊藤伊那男

 桜というと春、爛漫と咲き誇る様は皆の心をうきうきとさせてくれるが一方、11月ごろから1月にかけて咲く冬桜を愛でる愛好者もいる。
 この句は上五から中七にかけての「散り際といふもの見せず」に、冬桜の風情を余すところなく描写している作品である。
 寒い中、一重の白い花びらを咲かせ、木もそんなに大きくはない冬桜。そういえば近づいて見ていても染井吉野のように惜しげもなく散る様子を見たことがないし、地上に積もった印象もない。健気で清廉潔白なこんなところが愛される所以かもしれない。

おつもりのあと新海苔のにぎりめし窪田明

 おつもりは御積りと書き酒席で酌や酒をおしまいにすること。
 気が合った同士で賑やかに酌み交わしたお酒もいよいよお開きとなり、最後に出てきたのが新海苔でくるまれた握り飯である。新海苔は11月下旬から12月の上旬が収穫期で中でも一番海苔と言われるものは、色や光沢がよく、口に入れば口どけ感、味、香りが素晴らしく、これで包んだお握りなら垂涎の的の逸品だ。腹ごしらえも完璧に家路に着かれる作者の満足な貌が浮かんでくる。

石狩のひろき河口や秋夕焼伊藤洋

   作者の洋さんの住所が長野県の原村から北海道の石狩に変わっていることに気が付いた。親の面倒をみるため生まれ故郷への転居だと人づてに伺ったが、人生長く続けているうちにはいろいろなことがある。
 さて掲句は今の住まいの近くであろうか、石狩川の河口での嘱目吟である。北の広大な大地の広い河口を覆う秋の夕焼の空を私は想像できないが、胸に染み入るような感動的なものだろう。いずれまた上京の機会もあるだろう。大自然が残る地でのご健勝を願うばかりである。

北風強し鍬に縋りて仁王立ち大塚禎子

 この句の作者大塚さんは失礼ながらご高齢だと思うが、毎月の作品を読ませて頂くとまだまだ現役で田や畑で農作業を勤しまれていることがわかる。
 そしてその句群はリアルな描写が多く、実際に土と会話をしていないと出てこないものがある。
 真冬の畑仕事、中七からの「鍬に縋りて仁王立ち」の前向きの元気さに頭が下がる。同時に掲載の〈冬耕や風出て変はる土の色〉の捉え方も日頃から土に接していないと表現できない。

襟巻は妻の見立てや出稼ぎ夫阿部美和子

 ふるさとを離れて一定の期間を他の土地で働くのが出稼ぎである。そんな働き手と作者の会話から生まれたのがこの句であろうか。
 出稼ぎ人の生国、家族のこと、逗留期間等を喋っているうちに出てきたのが身に着けている襟巻のこと、奥様の見立てと聞いて、その思いやりに暖かいものがこみあげてきたのであろう。

月冴ゆる動物園の固き門大西裕

 夜の動物園の独特な雰囲気を巧みに詠んだ一句。昼間、親子連れなど沢山の人達で賑わった動物園、人気者の、あるいはお目当ての動物と遊んだ歓声もすっかり途絶え固く閉ざされた鉄扉の門が月明かりに光っているだけ。季語の月と動物園の門だけを提示して、昼間の賑わいをも焙り出している。

冬灯パソコンのこし夫逝きぬ小田絵津子

 机の上に残された夫の遺品のパソコンが冬の灯の下に静かに置かれ、さてどうしたものかと思案げな奥様がいる。こんな状況下でパソコンをどうするか。日常句の中で問題提起をされると同じような不安を覚える人も多いと思う。こういう句も捨てがたい。 

触れずともほろほろこぼれ花柊塚本照子

   柊の花のあり様が上手く詠まれた一句。普段は棘のある葉は知っていても花は目立たず、地面の微かな零れで気が付くほどの柊。触れずとも知らないうちに零れて密かな香りを伝えてくれる。平仮名の多用もいい句だと思った一因だ。