「耕人集」 10月号 感想 沖山志朴
生身魂福耳遠くなりにけり八木岡博江
若いころからきっと周囲の人たちに、いい耳の形をしている、福相だと羨ましがられてきた方なのであろう。そして、今でも立派な福耳。しかし、最近年齢とともにすっかりその耳が遠くなってしまった。福耳が遠くなったというところに俳味がある。
高齢社会を迎え、孤立死するお年寄りの報道も珍しくない。掲句からは、周囲の人たちから、敬われ大切にされている生身魂の様子が伝わってくる。
日が落ちてねぶたの目玉動き出す田﨑弘吉
秋田の竿灯、仙台の七夕と並んで東北の三大祭のひとつである「ねぶた」。いよいよ夜の帳が落ちて、祭の名前の由来でもある大型の張りぼて「ねぶた」の登場である。一句の眼目は、ねぶたの「目玉動き出す」にある。これは間近に移ってきたねぶたの迫力を象徴的に表現した措辞である。
大勢の観客、跳人の勢い、掛け声、笛、太鼓と、目抜き通りのその熱気や雰囲気の高まりには想像以上のものがあろう。そのような祭の昂ってゆく様子を象徴的に詠った句である。
まつ黒な鯉のかたまる原爆忌綱島きよし
作者は、上五を「真鯉」といわずに、あえて「まつ黒な鯉」と表現している。これは、ことさらに黒という色を強調するための意図的表現であろう。さらにその鯉が「かたまる」という措辞にも注目したい。これらの上五、中七の修辞が、季語の「原爆忌」を生かし、主題の明確化につながっているからである。
色のもつ印象は、不思議なことに国によってかなり違うようである。「黒」は西洋においては、高級なイメージを表すようであるが、周知のように日本においては、葬式などのご不幸の際の色として大方定着している。中国では暗黒社会を表し、面白いことにヒンドゥー教の国においては「怒り」を表すともいう。掲句も「まつ黒な鯉のかたまる」をヒンドゥー教の国のように「怒り」と解釈すると主題がさらに明確な句になる。
朝顔にこの世のちりのなかりけり大林明彥
中七の「この世のちり」に作者の苦心の跡がうかがえる。開いたばかりの朝顔の花は、まさに塵一つなく、清らかである。その朝顔を眺めながら、作者の胸の内に様々な思いが去来する。
仏教では、この世を濁り汚れた「濁世」と呼ぶ。掲句における「ちり」は、単なる埃を意味するのではない。政治、道徳などの世の中の乱れをも象徴していると受け止める。人と人の醜い争い、殺人、宗教上の対立、戦争‥。もっと平和で住みよい社会になれば、という深い願いが込められている句である。
汗押さへ祝詞受くるや帯祝山本由芙子
「帯祝」は、妊娠して五カ月目の戌の日に、母子の健康を願って妊婦に腹帯を締める儀式のことである。締めるのはいわゆる「岩田帯」。暑い盛りなのであろう、冷房の効いていない本殿で、妊婦が汗を我慢しながら神職の祝詞を受けている光景である。ただでさえ暑いのに、お腹に幾重もの帯を巻いた妊婦が、生まれてくる我が子のためにと必死になっている様子がいじらしい。
今では、安産祈願にはゆくものの、さらに祝詞を受けての帯祝をする家庭は少なくなってしまったのではないか。昔からの習慣を重んじる地域によっては、まだまだ神社できちんとした「帯祝」の儀式をする習慣が残っているのであろう。妊婦の必死な様子を伝える「汗押さへ」の季語が印象的である。
雪渓に行衣の白さ重なりぬ冨樫正義
作者は、東根市にお住まいの方。行衣、雪渓などから想像するに、山形県の月山での嘱目吟であろう。月山は、湯殿山、羽黒山とともに出羽三山の一つ。また、夏スキーが楽しめるほどの雪渓でも知られているし、先師皆川盤水先生も愛した山の一つ。
さらに月山は『奥の細道』に芭蕉が記しているように、古くから修験の山としても有名である。作者が目にしたのは、白い行衣の修験者たちが、まさにその雪渓を上ってゆく光景である。白が重なり、ともするとその姿を見失いそうになるくらいの雪であったのであろう。まさに精霊の山での句である。
榎咲く文字の薄れし一里塚平向邦江
日本橋を起点にして主な街道に幕府によって一里塚が造られたのは、十七世紀の初めころである。その際植えられたのが榎。榎は、枝を大きく広げるので、木陰で旅人が憩うのによかったとも、また、根の張りがよいので、しっかり塚を固めてくれるから、ともいわれている。その実は、秋に熟す。ほんのり甘く、戦後の食糧の少なかった筆者の子どものころには、ちょっとしたおやつ代わりにもなった。
榎の花は夏の季語。塚が造られた当初からの碑が残っているのであろう。年月とともにすっかりその石碑の文字も読みづらくなってしまった。花を付け、いっぱいに枝を張った榎の下に小さな碑が残っている光景である。成長を続ける榎と、古びた石碑との対照の妙である。
いつもより歩幅大きくサングラス船越嘉代子
サングラスをかけるのは、紫外線をカットするという目的だけではない。ファッションのためという人、自分に自信を取り戻したい、変身願望から、などなどいろいろあろう。
掲句の眼目は中七にある。作者は、サングラスをかけることにより歩幅が大きくなったという。堂々と胸を張って歩けるようになったということであろう。これはまさに自信の表れである。根底には、変身願望があったのであろう。変身した自らの姿を見つけ、それをひそかに喜んでいる自らがいることに気づく作者である。
サーファーの見得を切るごと立ち上がる丸山はるお
近代的なスポーツのサーフィンと、日本の伝統的な芸能の一つである歌舞伎から生まれた語の使用、という取合せの妙である。感覚が、斬新な句である。
「見得を切る」は、歌舞伎で、一瞬ポーズを作って動作を停止する演技を指す。感情の高まりなどを表現したり、特定の人物をクローズアップさせたりする効果がある。掲句においては、サーファーがよい波を捉えて、ボードの上に立ち上がった一瞬を喩えて表現している。普段から、物事や自然を俳句の目をもって注意して見ていないと、なかなかこのようなシャッターチャンスは訪れない。作者の俳句に対する熱意が生んだ賜物である。
蜩の片仮名で鳴く行者道池田春人
万葉集に「夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも」という歌が載っている。哀愁のある蜩の鳴き声を、古の人たちも蟬の中でもまた格別のものとして聞いていたのであろう。
掲句は、「片仮名で鳴く」に発見がある。沢山の蜩が、夕暮れの行者道に鳴いている。それを「カナカナカナカナ」と現代風に捉えながら、その物悲しい鳴き声を聞く。そして修験に励む僧の、時には心細くなるであろうその心中をも作者はひそかに思いやっているのである。
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