「耕人集」 12月号 感想  沖山志朴

宿坊の藁葺き覆ふ千草かな 飯田千代子

 御師の家のような宿坊であろうか。かなり年数も経っているうえ、手入れが十分でないために、藁屋根全体に秋の草々が繁っている。
 藁葺き屋根の葺き替えは、今日では簡単ではない。その理由の一つは、専門的な技術を持った人が減少していることにある。また、宿坊によっては講などの利用者が減ってきているため、改修しても採算が取れないこともあろう。さらに、御師の高齢化も進んでいるうえ、後継者不足ということも関係しているのかもしれない。一見、情趣あるように見える屋根でも、背景には急激に変化しつつある社会の陰の部分が映しだされている。作者も複雑な心境で見つめていたに違いない。

秋うらら轆轤を土の伸びあがり望月澄子

 陶芸を趣味としている方なのであろう。「伸びあがり」という下五の擬人化の措辞が見事である。 轆轤が回転するたびに、手を当てている土の部分が、上へ上へと細長く伸びてゆく。それがまるで生き物が伸び上る様子とよく似ているという。下五の動詞を連用形で止め、余韻を持たせている。それにより句に空間的な広がりができ、季語も生きてくる。見事な取合せの句である。

遅れ来て末座に使ふ秋扇池尾節子

 秋扇を使うのは、ただ暑いということだけではなく、遅れてきたことへの後ろめたさや恥ずかしさがあるのであろう。掲句の秋扇にはそのような作者の微妙な心理が表現されている。
 掲句には、動詞が三語、名詞が二語、助詞が二つ用いられている。動詞が多いことから何となくあわただしく落ち着かない雰囲気が一句に漂うが、微妙な心理を表現するうえで、それが効果をあげている。

芋煮会終はりてなほも火を囲む佐藤勇

 多くの人が集まって、芋煮会が行われた。お酒も入り、和やかな雰囲気の中で楽しいひと時を過ごした。やがて会もお開きになった。しかし、多くの人はその場を離れがたく、残り火を囲んでは、迫りくる夕闇の中でさらに語らいを続けた。
 囲む火は人の心を穏やかにし、心と心を結びつける不思議な力を持つ。心の絆を求めあう人の気持ちが、自然にそのような行動に向かわせたのであろう。

手振りのみ臥したる母の盆踊澤井京

 娯楽の少なかった昔、盆踊は若い人たちの楽しい村の行事の一つであった。母上もきっと若いころから毎年のように盆踊が来るのを楽しみにして踊ったのであろう。だが、高齢になった今、病のために起き上がることができない。しかし、踊歌が聞こえてくると不思議なことに病の床であっても手が自然に動き出し、踊りの仕草をする。 きっと母上の脳裏には、若いころの数々の楽しい思い出がよぎっているのであろう。

中天を剣の灯す立佞武多石川雄大

 立佞武多は、青森県五所川原市で開催される祭。立佞武多と呼ばれる巨大な山車が街を練り歩く。
 掲句は、巨大な立佞武多が、夜空に高く剣を掲げて進む様子を詠ったものである。立佞武多の規模の大きさ、その灯りの明るさが、「中天を灯す」に表現されている。「やってまれーやってまれー」という人々の掛け声までもが聞こえてきそうである。

微笑みて点字読むひと小鳥来る岩山有馬

 読んでいて心が温まる取合せの句である。季語の「小鳥来る」も効いている。 
 点字を読んでいるのは、当然のことながら視覚障害のある方。作者は傍らでその光景を見ている。点字を読んでいる人が顔を上げているだけに、その表情がよくわかる。楽しい一節に差し掛かったのであろう、読み進めている人に微笑みが浮かんだ。それを見ていた作者は我がことのようにそれが嬉しくなる。障害がありながらも、自らの世界を広げてゆこうとする人の姿が描かれている。

竹伐りて日暮の瀬音近くなる船田としこ

 何本かの竹が伐られた。すると竹林に空間が生じた。夕方になり、周囲が静かになってくると、川のせせらぎがいつもより高まり、川音が近くなったように感じられたという感覚的な表現の句である。
 都会に住んでいる人にとっては、竹伐るはあまり馴染みのある季語ではない。竹は、非常に生命力の強い植物で、放っておくと密生し竹林に日が当たらなくなり、竹の生育が悪くなる。そのため陽暦の9月から10月ごろに伐っては、細工物、物干し竿などとして使用する。