「耕人集」1月号 感想  沖山志朴

来し方の芥捨てばや雁渡し中橋光子

 夏の暑さもようやく過ぎ去って、雁渡しの吹く季節を迎えた。辺りの景色もすっかり変わり、涼しい風、澄んだ山野の景色、流れる水の音も心地よい。さあ、この鬱屈した心も切り替えて、気分を新たに毎日を過ごしていこう、という内面吐露の叙情句である。
 「ばや」は、終助詞。自らの意志を少し控えめに言い表すときに用いる。特に誰に語っているわけではなく、自らへ語るいわば内言の言葉である。   

ゆつたりと花野行くごと卒寿の日野村佐喜子

 卒寿を迎えた日の感懐である。激動の昭和、平成と生きてきて、決して楽な楽しい日々だけではなかったであろう。しかし、いやな思い出は取捨されて、今、その心は美しい花々の咲き乱れる秋の野を歩んでいる心地がして、実に充実しているという。たぶん、一生懸命に激動の時代を生きてきたという自負が満足感につながっているのであろう。
 この句の「花野」は、比喩であって季語として成立しないのではないか、といぶかしむ向きもあろう。しかし、筆者は季語として十分一句の中で読者のイメージ膨らますことができていると考えるので、可と考えたい。

鳥声のにぎはしき杜神迎藤沼真侑美

 神迎は通常は10月30日。地域によっては、10月29日のところもある。折から渡ってきた小鳥の群れが、まだその群れを解かず社の杜で騒いでいる様相である。とりわけ鵯などは、この時期に北海道あたりから暖かい地方へと群れをなしてやってきては、森でしばらく鳴きあっている光景が見られる。
 嘱目の句であろう。賑やかな鳥の声と神迎の季語との取合せが響きあっていて印象深い。

わつと来てさつと飛び立つ稲雀鈴木ルリ子

 稲雀の句は季節になると実に多く詠まれる。したがって、類句も多くなりがちであるが、掲句の作者は、上五、中七を「わつと来て」「さつと飛び立つ」と対句的に、独自の言葉選びで、的確に表現して印象付けている。とりわけ、「わつ」「さつ」のオノマトペの用い方が独特で感心する。ちょっとした言葉の選び方で、句の印象がたちどころに鮮明になってくることを教えてくれる句である。

時化の日の網の繕ひ石蕗の花小池まさ子

 漁村でよく目にする光景である。私の生まれ故郷の島では、網の繕いを「網をきよる」といった。沖は白波が立っているものの、入江になっている漁港周辺は比較的風も穏やか。眼鏡をかけた高齢の漁師さんが、破れた網の繕いに余念がない。その傍らには石蕗が彩りを添えている。
 旅先での句であろう。しっかりと写生されている取合せの句。意識的ではないであろうが、助詞の「の」が一句の中に4つ使用されているのも特徴である。

立ち話釣瓶落しに別れけり廣川秀子

もう少し話したいことがあるのに残念なことよ、という名残惜しさが表現されている。
 情報化の時代とはいえ、直接相手の表情を見ながら話すのと、機器を使用して話すのとでは感情の機微の伝わり方が違う。せっかく、話が肝心な点に及んだのに、と残念がる気持ちが17音の裏に滲み出ている句である。季語の特性も存分に生かされている。

虫食ひの葉も艶やかに柿紅葉野口栄子

柿紅葉の美しさには目を見張るものがある。彩りの豊かさ、艶やかさ、重量感、どれも他の植物の葉には見られない特長である。そんな魅力の一端を掲句はよく捉えている。虫食いの穴があっても、むしろそれをまた一つのデコレーションとしている、というのである。
 季語の多くは様々な角度から、その魅力が捉えられていて、いざ作ってみようとすると、先行句が多いのに驚く。掲句では、「虫食ひ」に着眼して、その魅力に迫っている。捉えどころが見事である。

駐車せしサイドミラーに小鳥来る野尻千絵

 季語は「小鳥来る」ではなく「小鳥」と考えるべきであろう。駐車している車に、尉鶲であろうか、鶺鴒の類であろうか、一羽飛んで来て、しきりにサイドミラーを攻撃している光景である。
 単独で行動し、テリトリーを持つこれらの鳥は、他の鳥が自分の縄張りに侵入してきたと勘違いして、鏡に映った自らの影をしきりと攻撃する習性がある。貴重なシャッターチャンスを見逃さなかった作者は、なかなかの腕前である。