「耕人集」 12月号 感想  沖山志朴

乳呑ませ姫に変はりし村芝居池田年成

 村芝居の句は、総じて俳諧味溢れるものが多い。掲句もその例外ではなく、思わず吹き出してしまいそう。
 娯楽の多くなった今日では、実際に村芝居を行っている地域はほとんどないであろう。掲句の作者も遠い日の記憶をたどりながらの、苦心の作なのではないかと推測する。過疎化で若い人が少なくなった村、懇願されて不承不承姫役を引き受けざるを得なかった若い母親の変身、という着想がなんとも豊かで楽しい。 

寝ねがたき手術前夜や蚯蚓鳴く 日置祥子

 「蚯蚓鳴く」は秋の季語。実際には、蚯蚓には、発声器官がないとのこと。螻蛄の鳴く声が混同されて定着し、季語となったものであろうといわれている。
 いよいよ手術前夜。手術はうまくいくだろうか、完治するのであろうかなど、あれやこれやと考えるといたたまれない気持ちになる。そんな不安感から聞こえてきた、実際の音ではなく、心の内なる音なのであろうと想像する。心理がよく伝わってくる。

病む人に言葉をさがす秋思かな 野口栄子

 重篤な友達なのであろうか。気弱になったその友達を励まそうとして、いろいろ言葉を並べる。しかし、事実とは違うことも言わなくてはならない。そんな自分への嫌悪感から、心が沈んでしまったのであろう。
 過去の様々な思い出が蘇ったのかもしれない。自らに正直な作者の心の優しさが伝わってくる。

虫の音に言葉少なき夕餉かな 澤井京

 西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に右脳(音楽脳)で処理する。それに対して日本人は左脳(言語脳)で受けとめ、虫の音を「虫の声」として聞いている、という実験結果を発表した学者がいるとか。日本人は、虫の音をとりわけ意味ある音として、機能的に敏感に受けとめているようである。
 お子さんたちはすでに独り立ちした、夫婦二人だけの生活なのであろうか。いつもなら、会話を楽しみながら食事をとるのであるが、今宵は、共に虫の音に感じ入るものがあり、耳を傾けながら静かに食事をしているという光景なのであろう。深まりゆく秋のしみじみとした情感の漂う句である。 

行きてなほ人影遠し秋の浜 内田節子

 秋の砂浜を一人歩いている光景。そのはるか先には、小さな人影。歩けど歩けどその距離の差はなかなか縮まらない。しだいに心細さ、孤独感が募ってくる。
 また、掲句は、心象としての風景であるとも受けとれる。人と心を通わせようと、近寄っていくのであるが、なかなかその距離が縮まらず、ふと寂寥感を覚える、そのような生きることの難しさを詠った句としても鑑賞できる。いずれに解釈しても詩的な情趣が感じられる。

胸突きの坂越えて来し花野かな 清水和德

 かなり急な上り坂であったのであろう。汗を拭き拭き上ってきたその坂の先に広がったのは、見事な花野。感動も一入であったであろう。
 上五の「胸突きの坂」がまず伏線のように配されている。そして、それが下五の「花野かな」と呼応して、一句の感動へと結びつく構成になっていて、読者を引き込む。この構成が見事である。さらに、下五に「かな」の詠嘆が用いられているのも、余韻を残し、効果的である。

本閉ぢし刹那始まる虫時雨 井川勉

 夢中になって、本を読んでいたのであろう。気が付けばだいぶ夜も更けていて、騒がしいほどの虫の声。夢中にさせたのは小説であろうか。虚構の世界からふと、現実の世界に戻った一瞬の戸惑いが伝わってくる。しかし、しばらくすると作者の心は、今度はその静かな現実世界へと順応してゆく。
 中七の「刹那始まる」に作者の表現の工夫の跡が窺がえる。映画のワンシーンが急に全く違う別のシーンに切り替わるような手法の巧みさに感心する。

蟷螂の構へにじわと犬が退くうすい明笛

 小さな蟷螂と大きな犬、蟷螂の静と犬の動、と対照的な構図が印象的な句である。
 犬から見れば、取るに足らないような小さな蟷螂、しかし、その鎌を上げた気迫に犬は圧倒され、思わず後ずさりしてしまう。生き抜くために必死の蟷螂と、ちょっとした遊び心からちょっかいを出した犬とのその存在の違いの妙も面白い。作者は意図していなかったであろうが、その表現を分析してみると興味深い事実が見えてくる句である。