「耕人集」 7月号 感想         沖山志朴

つばめ来て殉教の島賑はへり下地明三

 九州のいずこかの離島での属目吟であろう。中七の「殉教の島」の措辞が一句の眼目である。殉教の島の哀しい歴史的背景を踏まえながら読むと、多く詠まれる燕の句であっても心に感じ入るものがある。
 日々島の殉教の歴史を背負って生活している島。ご多分に漏れず、ここも急激に過疎化が進み、寂しく静まり返っている。そこへ長い旅の途中の燕が沢山飛来して来て、電線に群れて安らいだり、上空を舞って採餌したりしている光景。しばらくするとまた多くの燕たちは、遠く本土へと飛び去って行くのであろう。集落の人たちも、この時期を迎えると、今年も燕たちがやってきてくれたなと、喜びつつ賑やかな空を仰ぎ仰ぎして生活しているのであろう。 

郭公の谺重ねて暮れなづむ堀田知永

 山間の夕暮れの景色が、的確に表現されている。どことなく寂しさを伴った詩情の感じられる句である。
 暮れそうでなかなか暮れない夏至の頃の黄昏時。あちらでもこちらでも日暮れを惜しむかのように鳴いている郭公の声が、谺となって響き合っている。聴覚と視覚との融合が相乗的に作用し合っていて見事である。この季節になると日常的に見聞きしているのであろう夕景色。自然豊かな地に住んでいる人ならではの句。

写経積む薬師寺伽藍風薫る齊藤俊夫

 新型コロナウイルス騒ぎが起こる以前の、薬師寺の写経道場での写経であろうか。写経の句は少なくはないが、固有名詞をあえて出しての写経の句は多くないように思う。
 薬師寺の広い写経道場。多くの人に混じって作者も一心不乱に文字をなぞる。ふと薫風が吹き込んできた。心地よい疲れに顔をあげる作者。不思議に心の落ち着きを感じてはまた筆を握る。

入学の子ははらからに纏はられ鈴木さつき

 まるでその場の賑やかな雰囲気が伝わってくるようである。兄弟が多いのであろう。これから入学式を迎える一人を、玄関先で送りだそうとしている朝の光景なのであろう。写真を撮ったり、あれこれとアドバイスしたりと賑やかである。
 今年は、新型コロナウイルスの影響で学校行事も大幅に変更された。入学式についてもしかり。例年よりもかなり遅れ、しかも質素なものとなってしまった。周囲の人たちもやきもきしていたことであろう。それだけに入学式を迎えた喜びも一入であったろう。  

黒揚羽羽化の直後のぬれし翅久野静江

 蝶の羽化は、ほんの一瞬で終わることが多いというから、一般の人が羽化の瞬間を見届ける機会はめったにない。植木などでさなぎを見かけ、そろそろ羽化しそうだと思っていると、いつの間にかどこかへ移動していて、すでに羽化も終わっていたりする。
 掲句の蝶は、その羽化が終わったばかりの、まだ体も乾ききっていない動きの鈍い蝶。作者にとっても初めて目にする光景だけに感動も深かったのであろう。妖しい光を放つ蝶をしばし見つめる作者の姿が浮かぶ。

穏やかな日々が何より諸葛菜野村雅子

 新型コロナウイルスの脅威は、人々の生活だけではなく、ものの考え方や生き方までを大きく変えつつある。今後どのように収束してゆくのか分からないが、まだまだ先は見えてこない。しばらくは、社会の混乱も続くことであろう。
 作者も、この異常な社会の状況の中で、今後の生き方や、健康であることの尊さを、しみじみと考えさせられたのであろう。そして、今まで、日常的に目にしてきた平凡な草花でも、改めて見直してみると、命あることがいかに尊いことであるのかということを実感させられたのであろう。平凡でも、健康で、日々穏やかに暮らせることが何よりもの幸せと思う。  

鶯の谷渡りまた上流へ池田春斗

 鶯の鳴声は、「チャッチャッ」という地鳴き、一般的な「ホーホケキョ」という縄張りを主張したりする際の囀りの他に、「ケキョケキョケキョ」という谷渡りがある。
 谷渡りについては、抱卵している雌や、巣の中にいる雛などに、危険を知らせる鳴声であると一般的には言われている。この鶯についても、近くに巣があって、雌や雛がいることが考えられる。中七の「また」は、上流から下流へ下ってきた鶯が、再び来た方向へ移っていったという意味。この近辺に、営巣しているであろうことを作者は想像していたのであろう。この谷渡りが、句の中に取り上げられることはあまりなく、作者の小鳥への関心の高さが窺われる。