「耕人集」  5月号 感想             髙井美智子 

炉を囲みくらし正方形となり鳥羽サチイ

 雪国では今も囲炉裏を使用している貴重な暮しが残っているようである。作者がお住まいの新潟では雪が深く積もると家に閉じこもる生活を余儀なくされる。囲炉裏は生活の中心となり、その周りを家族が行き交い、煮炊きや裁縫や食事の団欒などで欠かせないものとなる。
 囲炉裏は正方形なので必然的に暮しが「正方形になる」と面白い視点から捉えた句である。簡潔な表現が想像を膨らませる相乗効果をもたらしている。  

大空へ歌ふがごとく花辛夷金井延子

 寒い冬を乗り越え、まだ冷たい風が吹く中を真っ先に空高く咲くのが辛夷である。山々は未だ芽吹かず、モノトーンの世界が広がっている。一際真っ白な辛夷に目を引かれた作者は、春になった喜びを全身で受け止めているようだ。その気持ちを中七から下五にかけて「歌ふがごとく花辛夷」と思い切った表現を試みている。擬人化をすることにより、辛夷の花の生き生きとした様子も窺える。                                

腕上げし夫の手料理女正月澤井京

 退職をされた御主人が、料理に挑戦するようになったようだ。最近はユーチューブなどで簡単に調理方法を勉強することができるので、男性も気軽く料理を楽しめるようになった。女正月の朝から、ご主人がいそいそと台所仕事をしている景が浮かんでくる。作者は出来上がった料理をさぞかし褒め称えたことであろう。

伊江島の菜の花浜へ広ごれり與那覇月江

 沖縄県の伊江島は、沖縄戦の最も激戦地であった。今は伊江村の海岸の砂地や荒れ地などには、菜の花が咲き誇り一面に広がっている。作者は戦争で焼け野原になっていた土地が、菜の花で埋め尽くされ、浜まで広がっている情景に特別な思いを抱いていることと思われる。
 今年は沖縄返還から五十周年を迎えているが、沖縄の方達にとっては感慨深いものがあることであろう。 

ドロップの缶より蒔けり花の種山宮有為子

 ドロップの缶とは、昭和初期を代表するサクマ製菓のドロップの缶であろう。好きな色の飴が出るまでカラカラと振った記憶がある作者。そんなドロップの缶を捨てられず、花の種入れにしている。この花の種も何年も代を重ねているのかもしれない。春にはドロップのような色とりどりの花が咲くことだろう。   

水音はカノンの調べ春隣百瀬千春

 水音を「カノンの調べ」の措辞で表現したことにより、よどみなく軽やかに水が流れている小川の様が髣髴としてくる。カノンとは、主題を複数の声部や音程で繰り返し演奏する様式の曲を指す。古くはフーガと称された。
 堀辰雄の小説「美しい村」には、水車の道のほとりのチェコスロバキア公使館別荘からバッハの遁走曲(フ ーガ)が聞こえてくる名場面がある。この小説の散歩道でもある軽井沢の「フーガの道」を連想させられた。

 水音がつぎつぎと広がるように読み手の想像も広がってくる句となった。

蓮華草明日香の原に日と遊ぶ石井淑子

 明日香は今も野原と田畑が広々と残っており、蓮華草が野に蔓延っている光景を詠った句である。古墳を囲む広い野原に日差しが降りそそいでいる。下五の「日と遊ぶ」の措辞が的確で、蓮華草の有り様が浮かんでくる。

人は皆夢の途上よ西行忌関野みち子

 このように「人は皆夢の途上よ」と言い切ってくれると妙に納得する。問題を抱え悩んでいるときに「夢の途上よ」と言い聞かせてみるとなにやら楽になってくる。また、俳句を吟じているのも夢の途上かもしれない。
 西行も歌を詠みながら、夢の途上の旅をしていたのかもしれない。「西行忌」の季語を用いたことにより、一層叙情に溢れ、哲学的な面をも思わせる句に仕上がった。

春立つや児らは粘土を桃色に齋藤キミ子

 最近の遊び道具の粘土はカラフルで、子供達の想像力をかき立てる。よくよく見ると、どの児も明るい桃色の粘土で何かを作っている。この見逃してしまいそうな光景を捉えた作者の句心を称えたい。「春立つ」の季語を用い、明るい気持ちが伝わってくる秀逸の句を生み出せた。