「耕人集」 5月号 感想                          高井美智子 

人混みの中の静けさ梅まつり高瀬栄子

 春を待ちわびていた人々にとって梅まつりは格別である。まだ肌寒く地べたに車座も組めず、梅を愛でながら洋服は冬物のままである。又新型コロナウイルス感染の広がりもやっと落ち着きを見せて、人々が集まり始めているものの、梅まつりはどこか静けさが漂っている。
 この空気感を見事に捉えた作者の感性の鋭さが光る一句である。静かに梅を愛でている作者の姿も想像できる。

風花や陀羅尼助買ふ蔵通り石井淑子

 陀羅尼助は1300年の歴史を持つ胃腸の生薬である。漢方薬は体に穏やかに効くので安心感がある。この生薬が蔵通りの漢方薬を専門に売る老舗で売られていたようだ。
 風花の舞う寒い日などは胃がキリキリと痛むが、風花の季語が陀羅尼助を売る蔵通りと響きあい、昭和の時代へタイムスリップしたようだ。                                  

耳過ぐる風のとがりや余寒なほ横山澄子

 耳元を過ぎる風を触覚や聴覚を使って繊細に感じ取っている。作者は風が耳に触れた時、尖っていると感じ、風音も尖っているように思えたようだ。「余寒なほ」の季語の採用が秀逸である。   

湯たんぽを桟敷に並べ村芝居成澤礼子

 村芝居は秋の季語であるが、この句の場合は湯たんぽが強烈に飛び込んでくる句である。夕方から始まった村芝居の桟敷に湯たんぽが並べられているとは、なんとほのぼのとした光景であろうか。芝居を待っている間も湯たんぽを抱えながら、村人の和やかな会話が聞こえて来るようだ。 

春の日や水面気怠き風渡る澤井京

 冬場は凍り付いていた水面に渡る風は冷たく張り詰めていた。春の日を浴びるとその厳しさを忘れたかのように水面の様子は一変する。その変化した様子を作者独自の感性で捉え、「気怠き風」の措辞で言い当てている。しばらく佇んでいると作者独自の感性による景色が見えて来たように思える。おそらく冬の間も何度も散歩をされていたコースなのであろう。だからこそ水面の様子の違いに気づかれたのである。

山肌に兎の形や田水張る雨森廣光

 雪解けの山には起伏の状態によって動物等の造形が白く浮き上がる。例えば鳩の形が現れる雪解山は地元では「ぽっぽが出たよ」と親しみを込めて言う。作者が見たのは兎の形であった。この雪解けの造形が現れると田水を張る合図である。雪解けの措辞を省略し、「田水張る」の季語を採用したところに句作の努力が窺える。農日誌を書く為の読み書きも出来ない時代からの人々の知恵であるのかもしれない。 

簡単な母のメモありしもつかれ野口栄子

 栃木の故島田ヤスさんは高幡不動尊で開催された新年俳句大会に自家製の「しもつかれ」を持参されていた。塩引き鮭の頭を素材とした不思議な味に話題が弾んだものだ。「しもつかれ」は今年発行された角川俳句大歳時記で初めて季語として採用された。「しもつかれ」は各家庭によって味が異なるという。お母さんの簡単なメモを頼りに「しもつかれ」の味付けに挑戦されているようだ。作者は栃木の食の誇りを詠いあげ、又故島田ヤスさんを偲び作句されたと思われる。
 島田ヤスさんの句を紹介する。
しもつかれ煮込む大釜真砂女の忌 

妻の客長居してゐる春炬燵岩朱夏

    作者は「耕人集」2022年2月号で「にぎやかに妻の客来て冬至粥」を作句されていたが、今回も妻の客という素材で、俳諧味のある秀句を作られている。女性の話題はたわいもなく、男性は加われないことが多い。作者は聞きながら、長閑で安泰という空気の中に浸っているように思え、まんざらでもないようだ。
 作句に余裕があれば、自分自身の類想類句にも注意をはらい新しい発想を心がけたい。

冬晴や家号で巡る回覧板佐藤文子

   作者のお住まいの村上では、回覧板は家号で回すようである。小商いの店が並んでいる商店街では、お互いを今も家号で呼び合っている。旧家が並んでいる地域の回覧板の家号に気づき、「家号で巡る」と擬人化し、苗字がなかった時代の家号のなごりを強調した句に仕上げている。「冬晴」の季語によって、回覧板を回すにも大変な雪深い北国の生活を推し量ることができる。
 苗字(名字)をつけるという制度の始まりは、明治政府が苗字の使用を義務づける「苗字必称義務令」という太政官布告を出したことによる。歴史的にはつい最近のことなのである。
 同時句に「畏みて熊汁囲むまたぎかな」がある。