「耕人集」 1月号 感想                          高井美智子 

夫想ふ時効はあらじ秋の月佐藤和子

 中七の「時効はあらじ」の措辞に一瞬どきりとさせられた。ご主人が亡くなってから10余年の月日が流れた。悲しみを拭うには、時が解決してくれると思っていたのだがそうではなかった。何時までもめそめそするんじゃないと自分を攻めつつ、いや想うのは心の自由だと素直になってみる。日常では何事も無きがごとく明るく振る舞っていても、ふと心に隙間ができた時などは、夫を想う気持に色褪せることはなく、時効もないのだ。

鯔跳ぬる横浜港に飛鳥Ⅱ石川敏子

 飛鳥Ⅱは横浜港の大さん橋から出入港する。夢のような旅の思い出を乗せて真っ白な豪華客船飛鳥Ⅱがゆっくりと入港してきた。まるで船を出迎えるかのように鯔が跳ねている。
 鯔と飛鳥Ⅱの対照的な二物の取合せが効果を発揮した二物衝撃の若々しい句である。                                   

病む鷗浮かべて伊根の冬の凪北村峰月

 伊根の舟屋は海から引き上げてきた木造船を小屋の前に係留しており、伊根湾には二百余の舟屋が連なっている。この穏やかな湾に病んでいる鷗が浮かんでいる。春の旅立ちに向けて鷗の病も癒えてほしいと見守る作者の優しさがうかがえる。「冬鷗」が季語であるがこのように季語を分割する使い方もある。    

ゆく秋の船旅遺灰ともなひて小林美智子

 ご主人との思い出の海へ散骨に来られたようである。「散骨」を「船旅」という一語を使用したことにより、想像の広がる感慨深い句となった。まだまだ一緒に旅をしたかった作者は、遺灰をともなって船旅をしている。 

ブルペンの孤独を照らす十三夜舘千佳子

 ブルペンで出番を待つ選手の気持に寄り添っている作者である。省略を利かせて言葉を選び抜き、この選手を「孤独」と言い当てている。十三夜は肌寒を覚える頃で、月光もいよいよ澄み渡り、出番を待つ選手を照らしている。

松手入れして黒々と能登瓦安奈朝

 令和6年の元旦の夕方、能登は不意打ちの地震に襲われた。押しつぶされた家屋は、能登瓦が伏すように崩れてしまった。掲句は地震前の光景である。松手入れが終ると太陽の光が差し込み、能登瓦も黒々と輝きだした。
 地震の復興作業が進み、以前のような威厳ある輝きの能登瓦に戻ってほしいものだ。 

稲架かけや声を投げあふ学校田春日玲子

 学校田の稲架かけの賑やかな様子を詠った句である。稲架かけをする時、調子よく声を掛け合うが、この様子を「声を投げあふ」と言い切ったことに臨場感の溢れる句となった。遊びながらも叱られながらも稲架かけは楽しく終わった。
 最近はコンバインという機械で稲の刈り取りから脱穀までの工程を忽ちに終えてしまう。昔懐かしい稲刈りや稲架かけは珍しい光景となってしまった。

脱穀を終へたる夜の静寂かな結城光吉

 脱穀は賑々しい機械の音に急かされ、人もくるくると忙しく動く。農家の広い庭が一日中大騒ぎである。脱穀を終えると手伝いの結いの人達も帰り、嘘のように静かになる。夜の静寂の庭には満天の星がふりそそぐ。

おでん屋の知らぬ同士のすぐ馴染み長谷川貴美惠
 熱々のおでんの鍋を囲み、所狭しと人が混み合うおでん屋。おでんの具のうんちくを語るだけでも話題は弾む。酒の勢いも加わり、知らない人同士がすぐに馴染むようである。柔らかく煮込まれたおでんを食べていると、心の芯までほぐれて来るからだろう。
 浅草の「おでん大多福」は創業百年の歴史がある。今も肩を寄せ合うような座敷を客に提供している。おでんは、日本の室町時代の「豆腐田楽」に始まり、その後、江戸時代後期に関東で醤油づくりが盛んになり、醤油味の煮込み料理が発展し、今日の「おでん」になったとも言われている。

山間の細道蕎麦の花明かり寒河江靖子
 満開の蕎麦の花明かりが山の細道を照らしている様を美しい調べで詠いあげている。
 蕎麦は米の耕作ができない山間部でも育てられる貴重な穀物であり、山奥の民家では、段畑に蕎麦を育てている。蕎麦は石ころの混じった痩せ畑でも育つ。
 私は6歳の頃、平家の落武者が逃げ延びた祖谷の山奥の親類を訪ねたことがある。蕎麦の花の山路を延々と登って行ったのをこの句で思い出した。平家の落人にとっては、蕎麦が命を繋ぐ貴重な穀物となったという。