古典に学ぶ (80) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を紐解く
─  小さく、粗末な本にこめられた作者の野心と夢① ─    
                            実川恵子 

 日本の最高峰の「古典」といわれ、世界の中でも高い評価を占めてきたのが紫式部という一女性の手による『源氏物語』である。今から千年以上も昔に書かれたものなのに、作品の密度、構成、面白さのどれをとってもこれを超えるものはなく、ある意味奇跡のような作品である。これから何回かにわたって『源氏物語』世界を紐解いてゆきたいが、まずイントロダクションとして本のかたちについて触れてみたいと思う。

 『源氏物語』は全五十四帖、四百字詰め原稿用紙に換算すると、約二千三百枚にも及ぶという。
これほどの壮大な一大古典文学だが、その初めはとても小さく、簡単で便利な升型本(ますがたぼん)と呼ばれるかたちで書き始められたようである。醤油や酒を計るあの升の大きさを想像したい。現在で言えば、文庫本、新書本の類であろう。当時、紙はとても貴重でなかなか手に入らないものであったらしい。その紙をたくさん使う大型の書物は、仏典・漢籍・漢詩文・勅撰和歌集などに限られ、日記や物語などはそれらに比べ、地位は低く、軽い扱いとして、手軽な小型本としての流通らしい。

 その小さな本が「桐壺(きりつぼ)」「帚木(ははきぎ)」「空蟬(うつせみ)」などとタイトルを付けて読切りのように世に広まったらしい。それを読んだ読者が面白ければ続編が要求され、面白くなければそこで終わりという、読者と作者の強い結びつきの中での真剣勝負だった。今でいえば少女漫画の連載のような、読者の熱気と期待に支えられての執筆というわけであろう。
 また、『源氏物語』は藤原道長がスポンサーになって誕生したという解説がまかり通るが、紫式部が道長の要請によって宮仕えに出たのは、『源氏物語』の評判が高くなり、無視できなくなってからの出来事であり、その当初はスポンサー抜きのまさに綱渡りのようなものであったと思うのだ。『紫式部日記』によると、執筆当初の大胆な志を忘れず、その原点を常に顧みて書くことを続けようとしている。
 道長によって後援された『源氏物語』は、やがて、中宮彰子のための豪華な本造りへと結実するが、権威的な装飾本に作者は疎外されたような一抹の寂しさを抱いている。「こころみに物語を取りて見れど見しやうにもおぼえず」(物語を読んでみても、自分のような気がしない。これは私の『源氏物語』ではない―)と。豪華な装飾本ではなく、小さく、そして粗末な軽い本に込められた作者の野心と夢を汲み取ってみるべきである。
 その「小さな本」は、愛をめぐる物語として描かれた。しかし、この物語が、色好みの光源氏の手当たり次第の恋の冒険物語ではなく、愛のすれ違いや空転、誤解、伝えることの難しさなどを、ことごとく語っていく物語なのである。どれほど愛していても、その思いは伝わらない、肝心なところで伝えきれない想いを抱えながら、孤独の中に生きる人々の物語なのである。
 愛があるから想いが伝わるのではなく、どこまでも想いがすれ違ってしまうという愛の不可能性をめぐって物語は書き継がれていくのである。