古典に学ぶ (99) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 「瘧病」という語の意味するもの②・柏木の病と死─
実川恵子
瘧病はなぜ、源氏の密通にのみ語られて、柏木にはあらわれないのか。この問題にもう少し触
れてみたい。
興味深いことに、藤壺、朧月夜、女三宮の密通に、桜が密接に関わっていることがいわれる。
藤壺との密通を予兆する若紫巻の垣間見は、盛りの桜の下でなされ、朧月夜との初めての逢瀬もまた、花宴当日の夜、まさに満開の桜の季節であるのに対し、柏木の垣間見は散る桜の下でなされる。同じ桜の下の垣間見とはいえ、対照的である。その興味深い物語世界に少し触れたい。第2部は「若菜」という巻から始まる。この巻は上下にわかれ、『源氏物語』全体の10分の1ものボリュームをもつ。他にはこのような大きな巻はなく、それだけでも「若菜」は物語の質が変化したことがわかる。
つまり、これだけの重量感をもって第2部が書き始められたのは、この時期の紫式部は心身が充実していて、読者にも好評を得て、まさに書き手としても脂が乗っていたのであろう。実は第2部こそ『源氏物語』の神髄であると私は思う。
その粗筋をたどると、40歳になった源氏は、病みがちで出家した朱雀院のたっての望みで、女三宮と結婚した。わずか14歳の女三宮は、朱雀院の最愛の姫君であったが、性格は幼すぎて手ごたえがなく、源氏は失望し、紫上のかけがえのなさを思う。それまで六条院の女主として信頼を集めてた紫上は、この女三宮の降嫁に心を痛め、我が人生を見つめた。
かねて女三宮に恋心を抱いていた柏木(頭中将の長男)は思慕の情を断ち切れずにいた。春爛漫の3月の終わり、遅い桜が残る六条院で蹴鞠(けまり)が行われた。当初源氏が提案したのは、蹴鞠ではなく、静かで秩序を乱すことのない「小弓(こゆみ)」が望まれていた。しかし、若者たちの選択は、激しい身体の動きを伴う活発な「乱りがはし」い蹴鞠であった。次第に若者たちの躍動は、源氏の静かで穏やかな調和の空間をかき回し、活気づけ、華やぎ、やがて乱していった。
ゆゑある庭の木立のいたく霞こめたるに、色々紐ときわたる花の木ども、わづかなる萌木の陰に、かくはかなき事なれど、よきあしきけぢめあるをいどみつつ、我も劣らじと思ひ顔なる中に、衛門督のかりそめに立ちまじりたまへる足もとに並ぶ人なかりけり。容貌いときよげになまめきたるさましたる人の、用意いたくして、さすがに乱りがはしき、をかしく見ゆ。御階(みはし)の間に当たれる桜の陰によりて、人々、花の上も忘れて心に入れたるを、大殿も宮も隅の高欄(こうらん)に出(い)でて御覧ず。(若菜上巻)
(風情のある六条院の庭の木立の深く霞がたちこめている所に、色とりどりに一面に咲いている桜の木々や、わずかに芽吹いた浅緑の木陰に、こんな取るに足りない遊びの「蹴鞠」だが、上手・下手の区別がある技を競いながら、自分も人に負けまいという顔つきでいる中で、衛門督の柏木がついちょっと加わった、その足さばきにかなう人はいないのであった。柏木は容貌がたいそう美しく、みずみずしい姿をしている人で、乱れぬように心づかいを十分にして、そうはいっても活発なさまは、おもしろく見える。寝殿の正面の御階の間に面している桜の木陰に集まって、人々が桜の花のことも忘れて蹴鞠に熱中しているのを、源氏も蛍兵部卿宮も、隅の欄干に出てご覧になる。)
この六条院の蹴鞠の庭で「乱れがはしく」散る桜の光景は、老いを迎えた源氏のありかたや六
条院の崩壊を予感させ、柏木や紫の上を死へと誘うものとも読める。また、「わらは」のエネル
ギーに満ちた世界ではなく、老い、死の世界なのである。「瘧病」は満開の桜と深くかかわって
いるのである。
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