古典に学ぶ (130) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─「病」と「死」を物語はどう描いたか⑭ 藤壺の宮② ─
実川恵子
『源氏物語』の根底にひそむあるまじき罪の犯しという大きなテーマを語る源氏と藤壺の密会の場面は、和歌の贈答歌を含み、その詳細は省き、ただ二人の対応する心情が重く、凝縮した文体で語られるように思われる。例えば、前回引用部分の最後の「命婦の君ぞ、御直衣(なほし)などは、かき集めもて来たる」は、放置された御直衣を王命婦が取り集めて持って来ているというだけの描写だが、そこには取り乱した源氏の姿が鮮明に印象づけられる。
また、その夜源氏と藤壺の二人の間に交わされた次の和歌は、それぞれの苦悩が色濃く投影されていて見事である。
見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな
世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を醒めぬ夢になしても
源氏にとっては、再びありえない、夢と思うほかない経験だけにさめることが恐ろしい。いっそこの夢のなかにこのまま消えてしまいたいという。これを受けた藤壺の歌は、またとなくつらいこの身をたとえ永遠にさめぬ夢のなかのものとしたところで、後々の夜の語りぐさになりはしないか、それが恐ろしいというのである。
源氏が、この時得たのは願いのかなえられた喜びではいささかもなく、あるまじき罪の犯しへの限りない恐れであった。今後の二人の関係が予知されるような場面である。
この場面に続く段は、藤壺の懐妊と源氏の夢占いによって、源氏の異常な運勢の語られる重要な場面である。藤壺は、帝と4か月ぶりの対面であった。しかも天皇の血統を宿しているとあって、父帝の歓喜と藤壺への寵愛ぶりは凄まじいものがあった。
七月(ふづき)になりてぞ参りたまひける。めづらしうあはれにて、いとどしき御思ひのほど限りなし。すこしふくらかになりたまひて、うちなやみ面痩(おもや)せたまへる。はた、げに似るものなくめでたし。例の明け暮れこなたにのみおはして、御遊びもやうやうをかしき空なれば、源氏の君もいとまなく召しまつはしつつ、御琴笛など、さまざまに仕うまつらせたまふ。いみじうつつみたまへど、忍びがたき気色の漏り出づるをりをり、宮もさすがなる事どもを、多く思しつづけけり。 (「若紫」帖)
(7月になってから、宮は参内なさったのであった。しばらくぶりでお気持もあらたに、またしみじみといとおしくて、いよいよまさるご寵愛の深さは限りがない。少しふっくらとおなりになって、お元気がなく面やつれしていらっしゃるご様子は、それはそれでやはり、なるほど無類にお美しい。
いつものように帝は一日中、宮のお局にばかりおいでになって、管弦のお遊びもしだいにおもしろくなる秋の空模様であるから、源氏の君もいつもおそばにお召し寄せになって、お琴やお笛など、あれこれとご下命になられる。君はひたすらお隠しになっていらっしゃるけれども、こらえきれないご様子の表にあらわれてしまう折々は、宮もさすがにお忘れになれぬことを、あれこれと思いつづけていらっしゃるのであった。)
源氏も召し加えられるこの幸福な世界は、しかしながら源氏と藤壺のそれぞれの深刻な不安と苦悩を同時に抱え込んでいるのである。やがて藤壺は、懊悩の果てに罪の子、冷泉院を生んだ。
帝は源氏と瓜二つの皇子に恵まれたことを喜び、熱愛した。それにつけても心の鬼にさいなまされるのは、恐るべき秘密を共有した源氏と藤壺であった。
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