古典に学ぶ (85) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 帝と桐壺更衣の今生の別れの場面のまなざし② ─    
                            実川恵子 

 世間の非難に逆らい、世評に抗って二人だけの純愛を貫いてきた帝と更衣であったが、その二人の別れの場面は、最後の最後で、「言えない」思いと「理解できない」思いとにあえなく引き裂かれてしまうのである。これに続き、 

 輦車(てぐるま)の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえゆるさせたまはず。
 帝「限りあらむ道にも、後(おく)れ先立(だ)たじと、契らせたまひけるを。さりともうち棄(す)てては、え行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじと見たてまつりて、
 更衣「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」
いとかく思ひたまへましかばと息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむ、と思(おぼ)しめすに、
「今日はじむべき祈禱(いのり)ども、さるべき人々うけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながら、まかでさせたまふ。

 ※ 輦車の宣旨とは、輦車は、手でひく屋形車で、東宮・親王・大臣・女御・僧正などが勅許を得て乗用し、宮門を出入りすることで、「宣旨」はその勅許を伝えることである。更衣が勅許を得たのは破格の待遇であった。
 
〈輦車をお許しになる宣旨などを仰せ出されてからも、またお部屋にお入りになっては、どうしても退出をお許しになれない。「決められている死出の道にも一緒と、お約束なされたではないか。いくらなんでも、私を残してはゆけますまいね」と仰せになるのを、女も帝のお気持ちをほんとうにおいたわしいと存じあげて、「(いまは、そうよりほかなく別れることになっている死別の道が悲しく思われますにつけて、私が行きたいのは生きる道のほうでございます)ほんとうに、このようなことになろうとかねて存じよりましたなら」と、息もたえだえで、申しあげたいことはあるらしい様子であるが、ひどく苦しそうで見るからにぐったりしているので、帝はいっそこのままで、どうあろうと、こうあろうとなりゆきを見届けたいとおぼしめすのに、「今日から始めることになっております数々の祈禱を、しかるべき験者(げんざ)の人々が仰せつかっております、それを、今晩から始めますので」と、せきたて申しあげるので、帝はたまらないことをとおぼしめしながら、更衣を退出させておやりになる〉

 この場面には注目すべきことがいくつもある。一つは、前回でも触れたが、輦車の宣旨を出した後も、なお引き止めようとする帝に対し、更衣が最後の和歌を口にする場面では、帝の捉えがたく、まなざしを向けるしかない、接尾語「~げ」は、短い一文中に、「聞こえまほしげ」「ありげ」「苦しげ」「たゆげ」と四例も重畳される。ここには何が何でも更衣の最後の言葉、最後の愛の表白、信頼の表明、思いの表明をなんとしても手に入れたいと切望し、苛立ち、あせる帝の緊迫した必死の試みの虚しさが、「~げ」という距離と断絶の思いに引き裂かれていってしまうのである。
 もう一つは、呼称表現である。更衣が突然「女」と表現されることに注目したい。これは身分とか地位を捨て、一個の女性という立場にあることを印象づけているのである。