はいかい万華鏡(1)
─ 老いて学ぶこと ─
                                             蟇目良雨 

明治大正時代に私が生まれていたら冨田木歩のような悲惨な最期を迎えていたかも知れない。大震災はあるわ空襲はあるわでは足の悪い私は生き永らえていなかったと思う。
 新しい時代に生まれ、富国強兵の掛け声が禁じられた国際情勢が味方をしてくれたのだろう、足が悪いくらいでは邪魔者扱いされない世間の中で自由気ままに暮らして傘寿を無事に迎えることが出来た。
 何にでも興味を持つことで時代の荒波を乗り切り、転勤族の父を持つ貧しい家庭に育ったので、大方の人が体験した貧しい生活も当たり前のように乗り越えてきた。
 生れは武州松山町(現在の埼玉県東松山市)。父はみちのく宮古の生れ、母は盛岡の生れで共に師範学校を出て教員をしていた頃知り合って5人の子を儲け、たった1人の男の子として大事に育てられた。
 父は新聞記者として忙しく、母が子の面倒を見たが教師上がりの性格だろうか、私が学校で特別扱いされることを嫌い、運動会の徒競走にも普通に走らされた。結果は想像出来るように先頭の子から何十メートルも遅れてゴールをするのだが、この時の悔しい「何くそ‼」という気持ちが私を育てたに違いない。今でも「春耕」運営で困難にぶち当たった時にはこの「何くそ‼」が危機を打開してくれる。
 今年度の芥川賞作品を読もうと「文藝春秋」を購入して読んでいたら石原慎太郎の遺児の1人石原延敬(のぶひろ)氏の「三回忌を迎えて 父慎太郎を作った人と言葉」に突き当たり読ませていただいた。 慎太郎は私の10歳上で、彼が『太陽の季節』で華々しくデビューした当時は、貧しい我々学生には縁のない存在であった。弟の石原裕次郎が銀幕で活躍していても興味が湧かなかったことも事実である。当時理系の苦学生の私にとって彼らは「チャラチャラ」していて別世界の人に思えたのである。
 しかし、今、表現者として見ると違った見え方がして来た。延敬氏が書くには、慎太郎を初めて認めた三島由紀夫が「石原氏はすべて知的なものに対する侮蔑の時代をひらいた。文学が蘇るために、1度は経なければならない内乱」だと評価してくれたことが慎太郎の其の後の表現世界を拡げてくれたとしている。さらに同学窓の伊藤整も「作家というものは何でもやって成功しても失敗してもそれを書くしたたかな商売」だと政治やヨットや映画をやる慎太郎を是認したという。
 私たちも俳句をあやつる表現者である。何でも俳句の材料にしてやれと思い切る強い姿勢が求められていると感じた。老いて学ぶことが多いのは嬉しいことだ。