コラム「はいかい漫遊漫歩」   松谷富彦

(56)放浪俳人、井上井月を発掘した男

 明治期、俳句革新に立ち上った正岡子規が「天保以降の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず、称して月並調といふ」(『俳諧大要』1895年刊)と旧派の俳風を切り捨てたことから、だれも疑わずに受け入れて来た俳句暗黒時代。天保改元三年前(1827)に没した小林一茶以降、子規が俳句写生論を提唱するまでの半世紀に及ぶ間は、蕉風の流れの絶えた “俳句の空白期 ”と高浜虚子ら子規の後継者たちを始め、だれ一人疑わなかったことこそ不思議だ。

“俳句の神様 ”が一人の俳趣味の男を動かした。長野県伊那出身の文人医師、下島空谷(本名勲 1870―1974)は、1927年7月に自死した芥川龍之介を看取った主治医である。ちなみに芥川は死の直前、空谷宛てに〈自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る〉と書いた色紙を遺した。

当コラムの「空白の俳句史百年」で紹介したように蕉風俳句の正統を継ぐ俳人として井上井月(1822―87 伊那を約30年放浪、乞われると句を詠み、指導、同地で没)の千四百を超える遺句を掘り起し、大正十年(1921)に『井月の句集』、昭和五年(1930)には高津才次郎との共同編集で『井月全集』を刊行、俳句空白期を埋める井月や門下の秀句、佳句を拾い出したのである。

芥川を始め内田魯庵、室生犀星、久保田万太郎、滝井幸作、板谷波山ら田端文士村の文人墨客に慕われた空谷の唯一の句集が『薇(ぜんまい)』(昭和十五年刊)。搭載百六十四句から――〈 元日のいよいよ熱き置き炬燵(澄江堂にて 芥川君の熱き炬燵を好みしは有名なり)〉〈 薇の綿からぬけて暖かき 〉〈 パラソルをそとすぼめたる桜かな 〉〈 苗売の来て糠雨となりにけり 〉〈 土くれや雀の糞のほろ寒き 〉〈 枕べのバイブルかなし梅雨くもり(芥川龍之介逝く)〉〈 干からびしままの栞ぞ萩の花(芥川龍之介より贈られし漱石句集の中にはさまり残れるもあはれ) 〉

(57)芭蕉のパトロン幕府御用鯉問屋の大旦那、杉山杉風

東京都の官僚腐敗の実体が炙り出された豊洲新市場への移転問題。世界最大規模の公設市場、築地市場の老朽化で近接の東京湾埋立地への移転準備の最中に明るみに出た黒い霧だが、今回は築地の前身、日本橋小田原町(現在の日本橋本町)にあった魚河岸時代の芭蕉に纏わる話。

桃靑を名乗っていた芭蕉は、延宝八年(1680)に小沢卜尺、服部嵐雪、宝井其角、杉山杉風ら門人二十人の名を連ねた「桃靑門弟独吟二十歌仙」を世に問い、江戸俳壇に宗匠としての地位を確固たるものにした。ところが同年冬、芭蕉は宗匠生活を投げ打ち、深川の草庵で隠遁の暮らしに入ってしまう。

後に芭蕉庵の名で知られ、庵主の俳号も桃靑から芭蕉に変る草庵は、門弟の一人、杉風(さんぷう)こと幕府御用の魚問屋、鯉屋市兵衛が所有する鯉の大生簀の番小屋を手直ししたものだったと言うのが通説だが、異論もある。芭蕉が寛文十二年(1672)に江戸に出て、最初に身を寄せたのが、北村季吟の同門下の鯉問屋、杉山賢水宅。杉風は賢水の長男で、蕉門十哲の一人として蕉風俳諧を築いただけでなく、三歳年上の師の最後まで経済的援助を続けた。

蕉門確立の功労者、杉風に対して、芭蕉は深い感謝の文を死の床で書き残す。〈杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御暇乞ひ致さざる段、互いに存念、是非なき事に存じ候。弥俳諧御勉め候ひて、老後の御楽しみになさるべく候。〉

ここで御用魚問屋について触れる。幕府、大名家にとって祝祭行事に欠かせぬ祝い魚は、鯛と鯉。日本橋魚河岸を仕切る御用鯛問屋と鯉問屋。杉風は一方の大問屋、鯉屋の主人で、人柄の優しい大旦那だったという。絵も堪能で「芭蕉像」二作は、芭蕉の風貌を最もよく伝えていると言われる。「翁の像を画きて」の前書の句。〈侘びられし俤画くしぐれかな〉平成十七年に閉店した杉風一族の栃木県倭町の老舗旅館「ホテル鯉保」は、女優、山口智子さんの実家。