コラム「はいかい漫遊漫歩」    松谷富彦

(102)老人と老人のゐる寒さかな   杏太郎 

 飄々と平易な言葉で紡ぎ、優しい詩心の伝わる俳句1767句を収録した『今井杏太郎全句集』が、没後6年の平成最後の秋に角川書店から上梓された。杏太郎句ファンにとって、待望の全句集の刊行を仁平勝さんら愛弟子とともに実現させた版元の石井隆司さんは、句集の栞に書く。

 〈 (俳句に)加えて、氏の俳句観を示す散文や俳論、自註等を主に晩年の文章から選んだ。いずれも氏の息遣いが伺える名文である。したがって、この全句集は杏太郎全句随筆集成と言ってもよい。」〉と。精神科医だった俳人杏太郎の人間洞察と句への反映も読み取れる400頁の“杏太郎集成集 ”なのである。

 今井杏太郎(本名昭正 1928―2012)千葉県出身。昭和30年、勤務医から貨物船の船医に転身した杏太郎は「ホトトギス」の俳人だった船長、機関長らと船上句会を。その後,医院を開業。「馬酔木」同人の桑原志朗を知り、指導を受ける。昭和44年に「鶴」に入会、石塚友二に師事。同61年に第1句集『麦稈帽子』上梓、先輩同人の星野麥丘人が序で書く。

 〈 杏太郎が、昭和57年度の鶴賞を受賞した時、亡師石塚友二は次のように言っている。「この人の作風は、真正面に坐った上で、真正面に話しかけたりするのは阿呆くさい、さう思ってゐるやうなところがある。兎も角も鶴では風変わりな作者なのである。何処まで行けるものか、行き着くところまで、渾身の勇を奮って試して見られるがよい〉と。杏太郎寸描ともいうべき激励の言葉でもあるが、ここで注意すべきことは「鶴では風変わりな作者」というところである。

  この言葉の影響もあってか、この言葉に左右されている人が多いようだ。しかし、私は「鶴では」の前に「現在の」という限定詞を置いて考えている。つまり、「現在の鶴では風変わりな作家」という風にである。〉序をさらに引く。

 〈 老人が被って麦稈帽子かな  という(杏太郎の)句がある。句集名に因んで抜いてみたが、ここに難解な言葉は一つも見当たらない。風変わりなことなどどこにもない。強い言葉が強く響くことの空しさ、激しい言葉がそのまま激しく消えていくことの脆さ、を知っているからこそ、それらの言葉を矯めているのであろう。〉と麥丘人は書き、〈 老人の句を挙げたので 〉と同句集から5句を引く。

 老人の息のちかくに天道蟲

  でで蟲を見て老人の泣きにけり

  老人の名はぺぺ棉の花さいて

  老人に会うて涼しくなりにけり 

  老人の坐ってゐたる海の家

  そして、麥丘人は〈 俳句に於ける言葉の力を優しさから示したのが『麦稈帽子』ではないか、と私は思っている。〉と序を結ぶ。(次話に続く)

(103)雪が降り石は佛になりにけり  杏太郎

 『今井杏太郎全句集』には、栞が付され、俳人たちの寄せたショートエッセーから杏太郎俳句の全体像が浮かび上がってくる。

 〈 京都の小さな書店で『海鳴り星』を見つけて、書棚から抜き取った時の本の手触りが今も鮮明だ。平成12年に俳人協会賞を受賞して、版を重ねての出版だった。 

  六月の雨のジブラルタル岬  

  サンタ・バーバラ海峡の夏霞 

  こんな美しい固有名詞には出合ったことが無かった。杏太郎先生は医者として外国航路に乗船されていた時期があったとのことだから、どちらの句も船から眺めた風景だ。先生の俳句は、基本に写生があるのだが、デッサンの線がぼかしやにじみによって朦朧としている点に特徴がある。最後の句集『風の吹くころ』でも顕著だ。題名が示しているように、どのページにも風が吹いていて、揺らぐような表現と相俟って独特の翳りを帯びている。

   敗荷の折れてしばらくしてしづか 

  雪が降り石は佛になりにけり

  冥きより暗きへこゑのかいつぶり

  1句目、折れたままの姿を静かに晒している敗荷を、本来不要な「しばらくして」の言葉で繋ぐことで「敗荷」が不気味なまでに存在感をもつ。2句目、「雪」がつかの間「石」にたましいを与えたような不思議。〉(「汀」主宰・井上弘美)

  老人のあそんでをりし春の暮  

  老人の坐ってゐたる海の家

  老人が被って麦稈帽子かな

  杏太郎さんの句には突き抜けた人生観が漂い、総じて人生を肯定的に捉えるあたたかさが溢れている。すでに第1句集『麦稈帽子』に登場する、いわゆる「としより」の句だが、初見のころ、この老人は単なる被写体と私は考えていた。だが今、読み直すと、この老人は作者その人に違いないと思えてくる。「老人」を「私」と読み替えることによってもたらされる安堵感の深さはどうだろう。〉(「鶴」同人・大石悦子)

〈 昭和61年の秋、第1句集『麦稈帽子』をいただいた。その面白さに釘付けになった。力が抜けていると言うのか、とぼけていると言うのか、生真面目な俳句を作っていた私には衝撃だった。 

  春の川おもしろそうに流れけり 

  向日葵をきれいな花と思ひけり

  夕立のあと夕空の残りけり 

  長き夜のところどころを眠りけり

  葉がみんな落ちてしまっていてふの木

  目つむれば何も見えずよ冬の暮

  寒さうなところにも人集まりぬ

 といった作品は、「俳句ってこれでよかったの?」というところがあり、その不思議な魅力は私にとって禁断の木の実のように思えた。

  今井さんの俳句にはよく老人が登場する。あるとき、「老人は寂しいんだよ」と若い頃ハワイのホテルでヘミングウェイを見かけた話をされた。カフェテリアで何もせずに一人でずっと遠くを見ていた姿が、とても寂しそうだったという。〉(「香雨」主宰・片山由美子)(次号に続く)