コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(120)夭逝の自由律俳人、住宅顕信(1)
私家版の『試作帳』と死後に句友らの尽力で彌生書房から出版された『未完成』の二句集で「自由律俳人」の名を遺すことになった住宅顕信(すみたく・けんしん)について書く。
顕信の遺した俳句は300句足らず。しかもそのほぼ全てが、昭和59年2月に急性骨髄性白血病を発病して岡山市民病院に入院し、退院することなく同62年2月に25歳で亡くなるまでの3年間に詠んだものである。
奇跡的な偶然の連鎖がなかったら、ごく少数の句友の記憶に残るだけで、世に知られることもなく埋もれ、忘れられただろう俳人顕信の名と作品。22歳で思い立ったように出家得度、浄土真宗本願寺派の僧侶資格を得て法名「釈謙信」を名乗った仏縁も働いたか、〈 昭和の終わりに、『層雲』の夭折俳人・住宅顕信が句集『未完成』に珠玉の句を遺したことを、特記しておきたい。〉と次の2句を添えて、川名大に著書『現代俳句〈上〉名句と秀句のすべて』(ちくま学芸文庫)に紹介され、俳句文芸に名と句が刻まれた。
鬼とは私のことか豆がまかれる
陽にあてたうすい影を置く
奇跡の連鎖を記す前に顕信の履歴を句友、池畑秀一(岡山大学教授・「海市」編集同人)が記す句集『未完成』の「あとがき」から引く。
〈 住宅顕信(本名春美)昭和36年3月21日岡山市生まれ。中学卒業後調理師学校卒業。市内の飲食店店員などの勤めを経て昭和54年岡山市役所に業務員として奉職。傍ら仏教書に親しみ通信教育を受け、昭和58年7月京都西本願寺で出家得度した。10月結婚。翌年2月に急性骨髄性白血病のため入院。新妻は妊娠していたが離婚。誕生した長男春樹を引き取り、病室での育児がはじまった。そんな生活の中で句作をはじめ59年10月『層雲』に入門、投句を始めた。層雲社事務室の池田実吉氏の熱心な指導を受ける。60年12月句集『試作帳』を出版。61年藤本一幸の『海市』に参加、その編集同人として活躍した。62年2月7日没。〉
数学者らしい池畑の誠に簡潔な顕信紹介に色を付ける。言語学者の京都大学名誉教授、東郷雄二のブログ『橄欖追放』は顕信について書く。
〈 10代はツッパリ不良、16歳で年上の女性と同棲、22歳で出家得度して結婚、23歳で白血病を発病、離婚して子供を引き取り病室で養育、25歳で病死した人。その人生は劇的の一言に尽きる。この経歴を一度知ってしまうと、頭から離れなくなる。顕信俳句を読むときに、この経歴をはなれて読むことはできないのである。〉と。
発病、入院してから本格的に句作を始めた顕信は、病と闘いながら尾崎放哉に心酔して自由律俳句を詠み続ける。生命の吐息とも言える句を3句。
若さとはこんなに淋しい春なのか
レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた
ずぶぬれて犬ころ
( 敬称略 次話に続く)
(121)夭逝の自由律俳人、敬称略住宅顕信(2)
住宅顕信が昭和62年に25歳の若さで逝ってから6年後、池畑秀一監修で『住宅顕信全俳句全実像―夜が淋しくて誰かが笑いはじめた』が小学館から出版された。タイトルの通り顕信の全句集とルポライター佐々木ゆりの精力的な取材による迫真の伝記で構成された「顕信全集」である。
「奇跡の連鎖」の話に入る。全集の監修者を務めた池畑の前書から引く。〈 顕信が世に出るきっかけになったのは、1周忌の昭和63年2月7日、住宅顕信句集『未完成』が自費出版でなく、彌生書房からの出版物として刊行されたことにつきる。これには不思議な大きな力が働いていたとしか思えない。 顕信死後18日目、私は京都の古書店で自由律俳句誌『層雲』関係の古書を大量に発見し、購入した。400数10冊だった。〉
それが縁となり、池畑は次の事実を知る。自由律俳人山田句塔(くとう)と詩人尼崎安四(やすし)の物語である。池畑は書く。
〈 句塔と安四は第2次大戦中の戦友。安四は昭和27年、38歳で白血病のため死去。安四こそ世に知られるべき詩人と信じていた句塔は、顕彰活動を賢明に行い、昭和54年に彌生書房の犠牲的精神により『定本尼崎安四詩集』が上梓された。句塔の安四に対する一途な思いには心打たれた。また一人の無名のまま亡くなった詩人を世に出すことが、いかに大変なことであるかがわかった。
なんと、彌生書房とは顕信がボロボロになるまで愛読した『尾崎放哉全集』の版元ではないか。そのことに気がついたときは体中に電気が走った。〉
池畑は、住宅家の許可を得て、彌生書房に顕信が生前、池畑に告げていたタイトルの句集『未完成』の出版依頼の手紙を出した。〈 句塔と安四の物語を知らなければ決してこうは事は運ばなかった。安四も顕信も白血病。ともに浄土真宗。不思議な縁である。その後の私の顕信顕彰活動は句塔を手本にしているのは言うまでもない。〉と池畑は記す。
顕信句集『未完成』の池畑の後書きによると、池畑と顕信の出会いは昭和61年8月。当時、自由律俳句結社『層雲』に入門したばかりの池畑に顕信から電話があったのが始まりだった。池畑は翌日病室を訪れる。自由律俳句については放哉、山頭火を僅かに知る程度だった池畑にとって、顕信の話は新鮮で魅力的だったという。
陽にあたれば歩けそうな脚なでてみる顕信
(敬称略 次号に続く)
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