コラム「はいかい漫遊漫歩」    松谷富彦
(136)歳時記から消えた怖い季語の話

 弁証法を定式化した哲学者ヘーゲル、ブルボン家の最後の王シャルル十世、森鴎外の歴史小説で知られる江戸末期の医師、考証家、書誌学者の渋江抽斎、東海道五十三次を描いた浮世絵師の歌川広重、徳川十三代将軍家定、「白鳥の湖」、交響曲第6番「悲愴」などの作曲家チャイコフスキーに共通の死亡原因から入る。

 加藤茂孝氏(理化学研究所 新興・再興感染症研究ネットワーク推進センター マネージャー)の論文「モダンメディア62巻6号2016[人類と感染症との闘い]」中の表から引いた19世紀初めから100年間にコレラの世界的流行で亡くなった著名人たちである。

 コレラはアジア型とエルトール型がある経口感染症で、アジア型は治療が遅れると死亡率80%の劇症伝染病。原発地はインドのガンジス川下流のベンガルからバングラデシュにかけての地方という。

  いまは治療法が確立し、早期対応でパンデミック(世界流行)は避けられているとは言え、インド、アジア南部、中国ではいまも流行が繰り返されている。2010年のハイチ地震では、突如被災地にコレラが発生、1万人を超す死者を出した。調査に当った国連は2016年暮れに「被災地支援に当ったネパールの平和維持活動部隊がコレラを持ち込んだ」と謝罪声明を出した。

  やはり劇症の天然痘は、世界で初めて撲滅に成功した感染症だが、コレラは〈 WHOの2015年の報告によれば、毎年140万人から430万人の患者が出ており、2万8000人から14万2000人の死亡者がいると推計〉(加藤論文)されるという。ところが俳句の世界は2000年以降刊行の歳時記から夏の季語「コレラ」が次々に姿を消し、忘れられた季語の一つになろうとしている。

「海」主宰の俳人で早稲田大学名誉教授、高橋悦男氏は「早稲田社会科学総合研究 第5巻第1号」(2004年7月)に「季語になった外来語」のタイトルの論文を寄せ、〈 明治時代に用いられた外来語の季語で注目されるのは「コレラ(cholera)」である。初出は明治36年の尾崎紅葉選の「俳諧新潮」〉とし、〈 一家族コレラを避けし苫屋哉 紅葉〉ほか1句を上げ、〈 日本には文政5年(1822)に初めて襲来、安政5年(1858)、文久2年(1862)にも流行した。(いずれも)流行が夏だったため、夏の句として詠まれた。死亡率が高く恐れられたので、俳人の興味を引き、外来語は好きでない虚子も大正3年にコレラの句を3句作っている。〉と紹介。うち2句を引く。

コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな

コレラ船いつ迄沖にかかり居る

「コレラ船」とは、船中にコレラ患者が出たため、入港を禁止されて港外に停泊している船のことで、終戦後の引揚船でもコレラ患者が出た船は港外で40日間防疫停泊を命じられた。

(137)コレラとニホンオオカミの話

 コレラの話に関連して絶滅種となったニホンオオカミの話を記す。前回書いたが、コレラが日本に初めて上陸したのは江戸後期の文政5年(1822)。鎖国政策の厳しさが残っていた時代であり、感染ルートは朝鮮半島か琉球からではないかと見られているものの、経路は不明。感染者は九州から東海道へと延びてきたが、箱根を越える前に終息、江戸は難を免れた。

  だが、それから36年後の安政5年(1858)に発生したコレラの世界的大流行(パンデミック)では、今度は江戸にまで及んで死者は数万~10万人に上ったとも言われているが、確かなデータはない。この時代になると欧米からの異国船が相次いで来航、日本も容易にパンデミックに巻き込まれることになる。しかも3年後の文久2年(1862)には、国内に潜伏していたコレラ菌によって大発生が起こり、56万人が罹患したと伝えられる。

  オランダ語のコレラ(cholera)から「虎列剌」と表記されたが、発症すると激しい下痢による脱水症状を起こし、ころりと死ぬことから、人々は「コロリ(虎狼痢)」と呼んで恐れ、関東地方ではニホンオオカミを眷属神として祀る三峯神社(秩父)、犬を祀る武蔵御嶽神社(青梅)の憑き物落としの霊験に縋る参拝者が押し掛けたという。それとともに憑き物落としの呪具としての狼の需要が高まり、捕殺の増加がニホンオオカミ絶滅に繋がったとする説もある。

  だが〈オオカミに対する誤解と偏見を解き、その生態を科学的に正しく伝え、世界中のオオカミの保護と復活の活動〉をしている一般社団法人「日本オオカミ協会」は、ホームページで「ニホンオオカミ絶滅の理由」を5つ上げる。

  ①明治時代のシカやイノシシなどの乱獲で、オオカミの食物が少なくなり、数が減った②乱獲により餌動物が少なくなり、馬など放牧家畜に被害を出して駆除された③文明開化にそぐわない野獣という政策的な理由で駆除された④オオカミの毛皮や骨肉は価値(骨は民間薬)が高かったので、換金目当てに乱獲された⑤イヌからの伝染病に罹った――と。

「最後に捕獲されたニホンオオカミ像」が捕獲地、奈良県東吉野にある。説明書から抜粋する。〈明治38年東吉野村で捕らえられた若雄が最後の捕獲の記録となった。当時ここ鷲家口の宿屋芳月楼で地元猟師から英国派遣の東亜動物学探検隊員米人マルコム・アンダーソンに買いとられ、大英博物館の標本となっている。かつて台高(だいこう)の山野を咆哮したニホンオオカミの勇姿を、奈良教育大学教授久保田忠和氏の手により、等身大のブロンズ像として再現した。昭和62年〉

絶滅のかの狼を連れ歩く三橋敏雄

おおかみに蛍が一つ付いていた金子兜太