コラム「はいかい漫遊漫歩」      松谷富彦
(150)虚子は社会性俳句をどう読んだか

 戦後の社会性俳句を主唱した沢木欣一のプロフィールから入る。
 1919年、富山市に生れた欣一は旧制四高入学と同時に俳句を始め、「馬酔木」「寒雷」などに投句、加藤楸邨、中村草田男に師事。42年に東大国文科入学、翌年11月臨時召集で金沢山砲隊に入営、句集用の草稿を後に妻となる先輩俳人の細見綾子に託して一週間後、旧満州牡丹江690部隊に転じる。

 渡満2か月後の44年1月、欣一は肺を病み牡丹江陸軍病院に入院、3月に綾子、原子公平の手で草稿が第1句集『雪白』として刊行、病床に届く。間もなく除隊になり、帰国、同年9月、東大を卒業。

 終戦の翌年、欣一は原子らと俳誌「風」を創刊、金子兜太も参加、50年代には「社会主義的イデオロギーを根底に持った俳句」を主張、いわゆる社会性俳句と呼ばれることとなる。欣一の社会性俳句の代表作と言われる〈 塩田に百日筋目つけ通し 〉を含む「能登塩田」連作(1955年)による第2句集『塩田』は、西東三鬼が激賞するなど話題を呼んだ。

 本題に入る。先に6話に渡って紹介した『虚子は戦後俳句をどう読んだかー埋もれていた「玉藻」研究座談会』筑紫磐井編著(深夜叢書社刊)の「第六章 社会性俳句」の沢木欣一の項(第37回研究座談会)から引く。

 座談会記録の冒頭、欣一の「能登塩田」連作から抜いた五句が並ぶ。

塩田に百日筋目つけ通し     

塩一石汗一石砂積み崩し

貧農が海区切られて塩田守る   

水塩の点滴天地力合せ

夜明けの戸茜飛びつく塩の山

虚子 塩田は夏となるべき季題でせう。いい句が沢山生まれればやがて夏期の季題として歳時記に収録されるでせう。

虚子 [力のある句ではないか(深見けん二)]さうですね。或る力を以て塩田を写生したものと思ひますね。

虚子 [嘘がない(星野立子)]塩田に託して、自分の思想を詠はうとしてゐるんだね。写生なら、もう少し言ひやうがあると思ふ。句ががらりと変って来る。或思想を持って作れば斯ういふ風の句になる。…季題といふことを、どういふ風に考へてゐるか、聞いてみたい。この人の意図する如きは季の無い詩を選む方が自由ではないか。

夕日沖へ海女の乳房に虻唸り

虚子 これは写生的じゃないか。いゝですよ。

虚子 [此は何ら思想が入っていない、正直なのだ(立子)]かういふ人には正直な人が多いよ。

虚子 [寝ても覚めても社会性というのではなくて自然を見れば自然を詠う(清崎敏郎)]それは、さうですよ。要するに各々社会の一員ですからね。社会性とか人間性とかいふものは自然に現れる。(次話に続く)

(151)沢木欣一の決意

 沢木欣一を社会性俳句論議の中心に押し出した第2句集『塩田』刊行は、1956年(昭和31年)。『沢木欣一全句集』(角川学芸出版刊)の「沢木欣一句集解題」(宮本正和記)から引く。
 〈 句集名となった『塩田』は、角川書店の「俳句」の当時編集長であった大野林火の慫慂で同誌の30年10月号に発表した「能登塩田」25句に拠るものであり、欣一の戦後のテーマの「社会性」と以後のテーマとなった「日本の原郷を問う」姿勢に兆すものと言える。〉 

 句集の「あとがき」で36歳の欣一は書く。〈 ぼくの俳句は加藤楸邨氏に俳句の土性骨を教えられたことから始まり、俳句の詩としての在り方を強く中村草田男氏から開眼され、詩の在り方の純粋さにおいて細見綾子より多くを学んだ。資質については『雪白』時代から金子兜太も指摘するのだが、石田波郷氏に最も近親を感じる。また山口誓子、西東三鬼、秋元不死男氏など新興俳句運動に強い刺激を受けた。…ぼくはぼくの道をはじめから歩いているに違いないが、これらの先輩の影響なしに自分を考えることが出来ない。〉と。

 そして、長い「あとがき」を次のように結ぶ。〈 文芸のなかで最も遅れているといわれる俳句を実作し、俳句にかゝわるいろいろな世界を通して、ぼくは日本文化の実情に触れることが出来たことを喜ぶ。そしてその最も遅れたところから民衆の一人として一歩々々発展していくことに勇気を感じる。ぼくは自分が小市民インテリゲンチアであることを確認し、その役割を考えている。〉

 1974年に第5句集『赤富士』を上梓した欣一は、〈 振り返ると東北や越後や北陸へ多く足を運んで句を作っているが、一口に言えば、害われない土俗土着の風物を探り、その生命力とエネルギーに触れたいという念願からであった。地表は近代化の荒波にもまれ衰亡するものが多いが、その奥底に潜む日本の原風景を見つめ、よみがえらせたいという気持ちである。〉と記す。

 76歳で出した第10句集『白鳥』の「あとがき」に欣一は、〈 私は昭和26年以来一貫して即物具象―写生を作句の指針としてきたが、古稀以来、俳句は『抒情の詩』というより『認識の詩』ではないかと考えるようになった。山川草木禽獣魚介、石くれに及ぶ森羅万象の生命力・存在感をしっかり見て捉え、身の内側に入れることが出来ればと念じている。〉と綴る。享年82歳。(文中敬称略)