コラム「はいかい漫遊漫歩」    松谷富彦
154蕉門の鬼才、野沢凡兆の意固地、偏屈

 加賀金沢の人、京都に出て医を業とした俳人、野沢凡兆について書く。

 『俳諧七部集』に収められた撰集の一つ『猿蓑』は、芭蕉の指名で向井去来と凡兆が編集に当たった。元禄4年(1691)、芭蕉が京都に滞在、監修した『猿蓑』の最高入集句は凡兆の41句で芭蕉の40句を上回った。

蕉門の最高峰句集『猿蓑』の功によって、凡兆は門弟の中から一挙に頭角を現すことになった。入集句から凡兆句を3句挙げる。

ながながと川一筋や雪の原

下京や雪つむ上のよるの雨

市中は物のにほひや夏の月

掲句の〈 下京や雪つむ上のよるの雨 〉のよく知られたエピソードを書く。『去来抄』によると、初め上五が決まらず苦吟していた凡兆に師の芭蕉が〈 下京や 〉と付けてやったところ、「あ」とだけ言って不満顔だったと言う。凡兆の句作における意固地ぶりを『去来抄』で去来はさらに記す。


田のへりの豆つたひ行く蛍かな  

 もとは先師の斧正ありし凡兆が句なり。さるみのの撰の時、凡兆曰、此句見る所なし、除くべし。去来曰、へり豆をつたひ行(く)蛍光、闇夜の景色、風姿ありと乞ふ。兆ゆるさず。先師曰、兆もし捨ば我ひろはん、幸ひ伊賀の句に似たる有。其を直し此句となさんとて、終に万乎が句と成けり。〉

この去来文を引き、自著『俳諧志』(岩波書店)で加藤郁乎氏は、凡兆の意固地、偏屈ぶりを書く。 凡兆とともに『猿蓑』を編んだだけあって去来の筆は簡短適切、さもありなんと思われる凡兆像を活写して余すところがない。それにしても、なんと自己主張の強い凡兆、悪くとれば身勝手うぬぼれ屋の俳人であろうか。…『去来抄』はほかに師を師とも思わぬていの凡兆一消息を伝えて言う。

桐の木の風にかまはぬ落葉か凡兆

 其角曰、是、先師の樫木の等類也。凡兆曰、しからず。詞つづきの似たるのみにて、意かはれり。去来曰、等類とは謂ひがたし。同巣の句也。云々

 問題の師弟句を並べて郁乎氏は書く。 これまた凡兆の自己主張が際立っており、先師の句とくらべて「意かはれり」などとは其角や去来のとうてい筆舌にだにせぬところ。

樫の木の花にかまはぬすがたかな芭蕉

桐の木の風にかまはぬ落葉かな 凡兆

 こうして二句並べてみれば一目瞭然、凡兆の作は比較云々するまでもない凡句愚作である。〉と。

 明治以後、凡兆を初めて賞揚した内藤鳴雪は 灰捨てゝ白梅うるむ垣根かな を、幸田露伴は 身ひとつを里に来なくかみそさゞい の句を高く評価した。

郁乎氏の文を引いて結びとする。 『猿蓑』以後、芭蕉から遠ざかり獄に下ったりした凡兆の終りは定かではない。『猿蓑』一巻により知られる凡兆だが、昨今では句集一本で知られるような俳人はほとんど見当たらない。〉変人、鬼才である。(次話に続く)

155鬼才、野沢凡兆の優しき妻、俳女羽紅 

意固地、偏屈の鬼才、野沢凡兆を語ったならば、師の芭蕉も高く買った優しい妻、俳女の羽紅にも触れるのが道理だろう。

凡兆とともに芭蕉に弟子入りした妻の羽紅(本名とめ)は、師に抜擢、評価されながら蕉門に立て突き離反し、友人の密貿易に連座、下獄した夫に終生連れ添った。羽紅自身の生没年は不明だが、出獄後の凋落の凡兆は、羽紅尼となった妻に看取られながら正徳4年(1714)春に没したことが、蕉門、服部土芳の『蓑虫庵集』によって知られる。

夫婦は、元禄3年から4年にかけて京都滞在中の芭蕉に蕉風俳句の指導を受ける。羽紅は同4年に剃髪して羽紅尼に。この年春、蕉門、向井去来の嵯峨野の草庵に芭蕉を夫婦で訪ねたとき、羽紅は またやこんいちご赤らめ嵯峨の山 (草庵のまだ靑い苺を見て、「また来たいと思うから、そのときは赤く熟していてほしい」)と詠み、師も同月20日の『嵯峨日記』にこの句を記し、次のように書く。

 〈 今宵は羽紅夫婦をとゞめて、蚊屋一はりに上下五人挙伏(こぞりふし)たれば、夜もいねがたうて夜半過よりおのおの起出て、昼の菓子盃など取出て暁ちかきまではなし明す。去年の夏凡兆が宅に臥したるに、二畳の蚊屋に、四国の人臥たり。おもふ事よつにして夢もまた四種と書捨たる事など、云出してわらひぬ。明くれば羽紅凡兆京に去る。〉

師、芭蕉と弟子の羽紅夫婦の親炙ぶりが分かる。『猿蓑』には、夫、凡兆の41句とともに羽紅も13句が入集。俳諧七部集の『曠野』など他の撰集にも数多く詠句が採られ、蕉門の才媛俳人ぶりを見せている。

『猿蓑』に入集の羽紅句を5句と『曠野』から1句引く。

だまされし星の光や小夜時雨

霜やけの手を吹てやる雪まろげ

はるさめのあがるや軒になく雀

迷ひ子の親のこゝろやすゝき原

入相のひゞきの中やほとゝぎす

佛より神ぞたうとき今朝の春『曠野』