コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(158)食いしん坊作家の好んだ料理
自作の江戸時代小説シリーズ『剣客商売』に登場する料理をまとめた池波正太郎著『庖丁ごよみ』(新潮文庫)で実作再現を担当した近藤文夫さん(銀座「てんぷら近藤」店主)は、同書に寄せて書く。
〈「近ちゃん、天ぷらはね、親の仇だと思ってスパッと食べなくちゃいけないんだよ」料理を作る側が、ハッとするような言葉がカウンター越しに飛んできました。お好きな天ぷら3種、きす、めごち、あなご。これは必ず最初に注文されました。〉
〈病院にお届けし、先生に召し上がっていただいた最後の料理は海老とそら豆の天丼、それに豆腐の赤だしと蕪のお新香でした。海老はやや太めのが4本、これをみな食べて下さいました。亡くなる1週間前のことです。〉
作家、逢坂剛さんは、〈池波さんを《グルメ》などと呼ぶのは、失礼のきわみだろう。…おいしい食べ物が好きで、料理には人一倍うるさかったようだが、《グルメ》という言葉につきものの気取りとか俗物性とは、およそ無縁の人だった。〉
〈池波さんの小説で、…出てくる食べ物は、古くからある簡素な家庭料理がほとんどであって、…気取った料亭の高級料理ではない。…池波さん自身が子供のころ家で食べた家庭料理、あるいは奥さまがお作りになったお惣菜や、外で口にされた庶民の料理がほとんど、…それらの料理が、読者の郷愁と食欲を、激しくそそるのである。〉(『庖丁ごよみ』あとがき)と書く。
食通作家は、日記にその日の献立を書き記していた。『食べ物日記 鬼平誕生のころ』(文春文庫)からアットランダムに引く。
*2月1日(木曜)晴
〔昼〕玉ねぎの味噌汁、納豆、めし、つけもの
〔夕〕焼豚、じゃがいも蒸焼、生キャベツ、半ぺん吸物、鳥玉子そぼろめし
*2月4日(日曜)晴
〔午後〕(ピーコック)ヒレ・ミニヨン・ステーキ、コンソメ、パン、レタスサラダ、コーヒー
*3月22日(金曜)くもり 暖
〔昼〕五目炒飯
〔夕〕ビール(小二)、ロールキャベツ、マカロニサラダ
〔夜〕お茶づけ一杯
*4月17日(水曜)雨
〔PM〕(根岸・香味屋)ポークカツレツ、ライス、コーヒー
〔夕〕(花ぶさ)ビール、トリすいなべ、酒、サザエツボヤキ、オカラ、イチゴ
*5月15日(水曜)晴
〔朝〕冷やしそば
〔夕〕ビール、芝エビ・三ツバのかき揚、生鮭焼き煮、ハマグリ赤だし、つけもの、めし〕
海凪ぎて春の砂丘に叉銃(さじゅう)せり池波正太郎
(美保航空隊時代詠)
(159)江戸っ子のファストフードだった天ぷら
23話で江戸っ子のファストフードだった握り寿司(鮓)の生い立ちを紹介したが、今回は同じく屋台の食べ物だった天ぷらの話。前回同様、紙芝居「黄金バット」の作家を経て風俗文化評論家、時代考証家として活躍した生粋の江戸っ子、加太こうじさんから生前に直接聞いた天ぷらの出自の受け売りをする。
日本橋にあった魚河岸の屋台で、揚げ立ての天ぷらを立食いで食べさせるようになったのは、江戸時代の初め。河岸で働く人々を相手に登場した握り寿司と同じで、仕事の合間に手っ取り早く腹を満たすファストフードとして関東大震災時まで「天ぷらは屋台の立食い食物」が東京っ子の認識だったと加太さん。
折口信夫の直弟子で国文学者、随筆家、“タレント学者”の草分け、故池田弥三郎慶大教授は、東京・銀座の有名天ぷら店だった「天金」の三男。父の金三郎は大震災前まで銀座四丁目(現在、服部和光ビルのある場所)で天ぷらの立食い屋台を出していたが、震災後、4丁目交差点から30メートルほど日比谷寄りに店を構えた。天ぷら店「天金」は繁盛し、銀座通りから一筋裏、店の横の通りは、昭和初期には「天金横丁」と俗称された。
一口に天ぷらと言うが、関東では元は鯊や鱚、海老など江戸前の生の魚に衣を付けて揚げた物だけを天ぷらと呼び、他のネタものは、がんもどき、精進揚げなどとそれぞれの名称で区別。一方、関西では野菜を揚げたものも、さつま揚げのようなすり身の魚肉を揚げたものでも「天ぷら」と呼ぶのはご案内の通り。
いまや“お座敷天ぷら”など高級料理入りした天ぷらも、元を糺せば労働者の腹を満たすお手軽食物だったという次第。
退屈もたらの芽も天麩羅にせり櫂未知子
春東京へ来て天丼と鮨ばかり樫原雅風
てんぷらやすでに鰭張る今年鯊水原秋櫻子
てんぷらの揚げの終りの新生姜草間時彦
稲の秋てんぷらの鍋鳴りはじむ長谷川櫂
竹の春吹かれとてとて天麩羅食ふ攝津幸彦
蓮枯れたりかくててんぷら蕎麦の味久保田万太郎
鱚天麩羅に笑ひ納めをいたしけり辻桃子
餅花の下を天麩羅そば通る鈴木鷹夫
(文中敬称略)
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